[読み物-03] 住まいで振り返る半生記【3】
【Episode 2 – 5歳~10歳】
両親が家を購入した、ここが終の棲家・・・になったらこのシリーズが終わってしまうw
幼稚園に通うようになり、物心がつくようになって、幼いなりにあれこれ考えるようになった。目の前を過ぎゆく様々なイベントに対して所感を抱くようになっていく。
いきおい思い出エピソードも増えてくる。
部屋番号06 - 埼玉県坂戸市某所
ここは分譲マンションだった。両親もそれなりに覚悟を決めて購入に踏み切ったのだろうと思うが、わずか4年ほどで引っ越すことになる。
分譲時の内覧会に連れて行かれたことを覚えている。いくつかの部屋を見て、角の3LDKの部屋やルーフバルコニーのある3DKの部屋などは楽しそうでいいな、と思ったが、未就園児の意見を全面フィーチャーして家を買う親はいない。というか、家族4人が快適に暮らせて、親族が泊まりに来ることもあるから客間も用意して、となると、広い部屋が必要になる、ということで購入したのはこのマンションで一番広い4LDKの部屋だった。
記憶を頼りに間取りを起してみた。
最近のマンションの設計思想からすると、かなりありえない間取りである。
4LDKとはいえ、西側(上の図で言うと上の方)の和室と洋室には窓がない。洋室は隣戸とエレベーターに面しているので仕方ないが、和室の方はなぜ廊下側に開口部を設けなかったのだろうか。
東側の和室と続き間にすることがマストだったのだろうか。そうなると押入のない部屋が2つもできてしまうので、やむなく廊下に面したところに押入を設けた、といったところだと思うが、続き間にこだわるより、両方の部屋の間を押入にして廊下側に窓を設けた方がよほどマシじゃないかと思うのだが。。。
おかげでふすまを閉めてしまうと部屋は真っ暗である。やんちゃしてお袋に叱られるとよくこの部屋に閉じ込められた。その頃の記憶がトラウマになっているのか、未だに真っ暗な部屋で寝るのが苦手である。。。w
こんな部屋。。。
トラウマと言えば、もう一つ忘れられないエピソードがある。父は良くも悪くも放任な親であった。当時川越市内に事務所を構えていたので、時々親の車に乗せられて事務所に連れて行かれることがあった。
ある日、午前中を事務所で過ごしたあと、父は都内に向かうというので、自分は川越駅で降ろされて、1人で電車に乗って帰宅することになった。幼稚園の年長の時の話である。
川越から自宅のある坂戸までは東武東上線で一本である。駅から自宅までの帰宅ルートも難しい所がないので、チャレンジさせてみようと思ったのだろう。
川越で父と別れ、東武東上線のホームからやってきた電車に乗る。ここまでは順調だった。
ところが次の川越市に着いたら「この電車は当駅で終点です」というアナウンスが流れて降ろされてしまった。川越市どまりの電車に乗ってしまった訳だが、川越市で降ろされることは想定していなかった。
さて、パニックである。聞いてないよー。
想定外など考えられない年齢である。この先どうやって家まで帰ればよいか分からなくなり、ホームで困惑する。どこ行きに乗ればよいかも分からなければ、列車の行先の漢字が読めないので、どの電車に乗っていいか、乗っちゃいけないのかもさっぱり分からない。不安が募り半泣きになりながら、駅の改札にいた駅員に泣きついた。
「坂戸駅まではどうやって帰ったらいいですか・・・」
今だったら泣きベソをかいた幼稚園児が電車の乗り方を聞いてきたら、何かあったと思われて、下手すりゃ警察沙汰になるかもしれない。だが当時の駅員は適当だったので、一般客への対応と同じような調子で、
「このあと同じ線路に来る森林公園行きの電車に乗れば帰れますよ」
と教えてくれた。帰り方が分かって安心。駅に着くまでは本当に坂戸駅まで行けるのか不安だったが、無事帰宅することが出来た。
ある意味、いい加減な駅員のおかげで大騒ぎにならずに済んだわけだが、自分がもっとボンクラだったら大騒ぎになっていたかもしれない。
今でもこの川越市での出来事を思い出すと背筋がぞっとする感じがある。ある意味トラウマだったのだろう。
当時、ファミコンがブームになり始めていた。近所の料亭の倅に呼ばれて、住み込みで働いている板前見習いたちが共同出資で買ったというファミコンで遊ばせてくれた。それで自分も欲しくなり親にねだったら、クリスマスプレゼントに買って貰えることになった。
近所のロヂャースに行くと、ファミコンの他にエポック社のスーパーカセットビジョンというゲーム機が売られていた。そっちの方が4000円くらい安い。親はこっちにしようという。自分はもちろんファミコンの方がよかったのだが、あまりダダをこねると買って貰えない。それは避けたかったので、渋々それで手を打った。それが間違いだった。
筐体が違うからファミコンのソフトは当然使えない。周りにスーパーカセットビジョンを持っている友達などいないので、ソフトの貸し借りができない。ソフトは高いのでなかなか買って貰えないから、最初に買ってもらったソフトをひたすらやり込んだ。ノーミスでクリアできるくらいにはやり込んだけど、持っている友達がいないから話も合わない。
今となっては、なんで数千円ケチろうと思ったのかな、と思うが、まぁそういう家だったのだ。あの時、数千円をケチらずちゃんとファミコンを買っていてくれたらなぁ。。。
父は自身が立ち上げた会社を大きくするため日々奮闘していた。売っているものはビデオカメラとかビデオデッキなどだ。当時はどちらも非常に高価な機材だったので、一般向けに売れるものではなかった。実際、お金がないけどテレビとビデオを欲しいという親戚に、彼らが乗っていた車と交換で売ったこともあるらしい。今では考えられないエピソードである。
それはさておき、父はそうした高価な機材の販路として、芸能関係をターゲットに展開していた。当時の芸能人は自身の舞台や、テレビ出演を後から見直すということが出来なかったのだが、ビデオカメラとビデオデッキがあればそれが出来る、と言うことで、よく売れたらしい。
必然、仕事付合いに登場する面々もその関係者が多くなる。誰でも知っているレベルの演歌の大御所が特に父を可愛がっていたらしく、我が家にも2度ほど麻雀をしに遊びに来た。その時は流石にお袋も浮足立っていた。
その頃が一番幸せな時期だったかもしれない。だが、父は芸能関係との付き合いが深まるにつれ、だんだんと遊び方が派手になり、仕事にかまけて平日は殆ど帰って来なくなってしまった。まぁ、自分はその辺の事情を知らなかったので、週末帰ってきて遊んでもらうのが何物にも代えがたい至福の時間だったわけだが、そんな風にのほほんとはしていられなかったのがお袋。そんな父を見て浮気を疑い始める。
浮気をしていれば、証拠を残さないようにするだろうし、やっていなければ当然証拠はない。やっていないことを証明することを悪魔の証明というが、まさにその状態。お袋は疑心暗鬼の塊である。
だが、やっていないことを証明するのは不可能である。いわゆる態度で示す、と言うことでしか疑心暗鬼を解くことはできないのだが、仕事が絶好調なうえに、元々亭主関白気質のある父は、そんなお袋に寄り添おうとしない。この頃から夫婦げんかが絶えなくなり、お袋はノイローゼになってしまった。
転機が訪れたのは自分が小学3年生の時。やんちゃ盛りの弟がマンション内で発生したイタズラの犯人として疑われた。弟はやってないと言い、両親もそれを信じて無罪を主張したが、同じマンションの住民の中に口うるさい人がいて、弟が犯人だと決めつけて頑として譲らなかったため、交渉決裂してしまった。
その一件がきっかけでマンション内の人間関係がギクシャクし始める。
誰とでも仲良くなることが特技だったお袋にとって、同じ建物内でのいがみ合いは相当なストレスになったらしく、精神状態は悪化の一途をたどり、ついに限界を迎える。ことここに至って流石に無視できなくなった父は退去を決意。
引っ越した先は、05.で住んでいた団地だった。
マンションの方は、いずれほとぼりが冷めたころに戻ることを考えていたのか、はたまた何らかの資産運用を考えていたのか、数年ほど空き家のままローンを払い続けていた。
当時はバブル景気の真っ只中ということもあり、父の金回りもよかったのだろう。