[読み物-03] 住まいで振り返る半生記【7】

部屋番号09 - 埼玉県坂戸市某所(その1)

大義名分は祖母の介助だったが、実のところ中野での生活から逃げだす形で祖母の家に転がり込んだ。学校は再び転校である。しかも3年生の時に何ひとつ挨拶もできずに立ち去った学校へである。戻って来てからかわれるのではないかと不安だったが、案外好意的に受け入れてもらうことが出来た。


祖母の家は団地内の老人向け世帯として設計された部屋で、平屋建てで庭つきの1DKである。当時の団地としてはなかなか先進的な設計思想の家だったと思う。

間取りはこんな感じである。

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特徴的なものとして和室の小窓と風呂が挙げられる。和室の小窓とは、昔の日本家屋の和室に付いていることがあった、床面から立ち上がる高さ4~50cm程度の小窓である。地窓と言うそうだ。団地という、合理的であることが是となる建物の中にありながら、ゆとりを感じさせるような設備であり、公団(UR)の遊び心の発露でもある。

少ない家財でつつましやかに暮らすような人であれば、地窓をうまく活用してお洒落な生活を演出することも可能だが、祖母の家は住民が2人いるうえ、その片割れがアレなので、そういう洒落っ気を嗜むどころではなかった。というか、家財で埋もれていたので、そこに地窓が設けられていたことすら暫く気が付かなかったくらいだ。


浴槽は団地にしては珍しく給湯式の物が使われていた。体の不自由な人でも入りやすいように湯舟が地面に半分埋め込まれたような形になっていて、敷居が低く、浴槽内にもステップが設けられていた。溺れるのを防ぐためか浅めに作られていて、その分長さがある欧米のバスタブのようなデザインのものである。そのせいでバランス釜を置く場所がなかったのだろう。

給湯式なので追い炊きが出来ない。祖母は湯舟に入ることが出来なかったので、普段からシャワーしか使わなかったが、K林さんが風呂に入るときは遠慮していつも自分を先にお風呂に入れてくれた。当時はそれを何とも思っていなかったので、風呂で遊んで長湯したり、やりたいことが手放せずになかなか入らなかったりしていたのだが、そんなことをしていると冬場などはすぐに冷めてしまう。
そこに不満を言われたことがなかったので、当時思いをいたすことはなかったが、K林さんは冷めたお風呂で我慢していたのだろう。今思えば気の毒なことをしていた。


あと、老人向け世帯の特徴として、各部屋に非常ベルが設置されていた。いざとなれば、そのスイッチを押すことで、軒先に設けられた非常ベルが赤色灯と共にけたたましい音を鳴らして、周囲に緊急事態を伝える仕組みになっていた。
幸い、我が家ではこのベルのお世話になることはなかったが、今では老人世帯のみならず一般の世帯にも設置されているアイテムであり、これもまた先進的な設備だったのだろうと思う。
押してはならないボタンが部屋にある。押してはならないというと押してみたくなる。でも押したら大事になるかもしれない。なので押したことはなかったのだが、一度くらい押してみたかったなぁw


K林さんが相変わらずだったので、自分が引っ越す前から部屋の中はあらゆるところがごちゃごちゃであった。自分が引っ越しをしてまず最初にやったことは自分の居場所作りだった。いくらか不要なものを処分して自分の居場所を作った。主に自分の私物は床の間に置くようにして、和室は祖母と自分の部屋となった。

どうにもならない荷物はキッチンへと追いやられることとなり、そこで生活していたK林さんの居場所がなくなってしまった。
結局K林さんが自主的に玄関廊下へと移動し、そこを自室にすることになった。玄関は以前からタタキの上にまんべんなくK林さんのガラクタ(主に古新聞)が敷き詰められていたので、元々玄関として使うことが出来ず、出入りはもっぱら庭から行っていたので、玄関がK林さんの個室となっても特段の不自由はなかった。
瓢箪から駒と言ってよいのか分からないが、タタキの上のガラクタがあったことで、廊下から玄関側にはみ出すようにして布団を敷くことが出来たので、K林さんはそこで寝起きをすることになった。


しかし、廊下に布団を敷いただけの場所である。カプセルホテルよりはマシかもしれないが、それでも高々1畳ほどの空間。助教授まで勤め上げた人が、自分の人生の決算期をそんな場所で遠慮しながら暮らすというのはどんな心境だったのだろうか。
まぁ、あまり不満を感じているようには見えなかったが。


K林さんは玄関の自室にどこかから拾ってきたテレビを置いて、いつも放送大学や教育テレビなどのアカデミックなチャンネルを見ていた。ノートに講義内容のメモを取っている姿も目にしたので、勉強熱心な人だったことは間違いない。
夜遅くまで見るので、早々に就寝する祖母に気兼ねしていたのだろう。

その拾ってきたテレビは白黒テレビであった。自分が生まれたころは既にカラー放送が主流の時代であり、このご時世にそんなものどこから拾ってきたのだろうか、と感心したものだ。

Posted by gen_charly