[読み物-03] 住まいで振り返る半生記【8】
部屋番号09 - 埼玉県坂戸市某所(その2)
自分が引っ越してきたころの祖母は歩けないとはいえ、寝たきりというほどでもなく、部屋の中を四つん這いで移動することくらいはできた。自分でできることは極力自分でやっていたので、案外、自分が介助者としてやることは少なかった。移動サポート的な力仕事よりも、煙草や食材の買い物を代行する役割が多かった気がする。
祖母はいつもダイニングの片隅に置かれた電気コンロの前に座って、一日の大半をそこからほとんど動かずに過ごしていた。そこにいる時は大抵正座(か、ちょっと足を崩してお姉さん座り)していた印象がある。何時間も正座していられるというのは、現代人の感覚では信じられないことだが、昔の人なので慣れていたのかもしれない。あるいはひざ下の神経が麻痺していたのかもしれない。
食事のおかずなどはその電気コンロで作ったりしていたが、電気コンロは煮物しか作れないので、料理のレパートリーが限られる。炊飯やちょっとした焼き物などはK林さんも作ったりしていたが、毎日作ることはできなかったので、出前で済ませることも多かった。
この家は洋式トイレが設置されていたが、祖母は便座に座ることが出来なくなっていたので、用足しは部屋の隅に置いたタライで行っていた。終わった後の処理はK林さんがやってくれていたが、いかんせん仕切りも何もないので、あけっぴろげである。
一応、なるべく自分やK林さんが家にいない隙に上手く済ませていたようで、その姿を見ることは少なかったが、夜寝る前など、どうしても自分が在宅中にバッティングすることもある。それをあまり気にしている風ではなかったので、こちらもそんなものだと思って気にも留めていなかったのだが、仮にも女性である。K林さんや孫のいる所で用足しをしたり、汚物を見られることはかなり苦痛だったのではないかと思う。
祖母はおっとりした人で、自分が勉強を全然しなくてもあまり咎められることはなかった。父は週に一度くらい様子を見にやってくるのだが、そこさえ乗り切れば、父の下で暮らしていた頃以上に自由気ままな生活だった。
しかも、それまで我が家では禁止されていたファミコンが解禁になったのだ、というか、祖母がこっそり知り合いに頼んで買ってくれたのだ。
それは有難かったが、ファミコンにはソフトが必要、ということは知らなかったようで、本体だけ渡されて嬉しいような、困るような。。。
流石にソフトは自分で買え、と言うことで小遣いを工面してソフトを買って、ファミコンのある生活が始まった。ただ、完全に出遅れているので、周りの友達に追いつくことはできなかった。それでも結構熱中したな。
そんな感じのダラダラとした小学生時代もやがて終わる。卒業である。4月からは中学生。自分の中では制服と通う先が変わったくらいの印象しかなく、相変わらずダラダラした毎日を送る。そのうち、なんで学校に行かなければならないのか分からなくなって、不登校になってしまった。
不登校と言っても、月曜日の朝に学校に行けなくて仮病で休む、すると次の日もっと行きづらくなってまた仮病で休む。それを続けると、木曜日位に担任が家を訪ねてきて、大丈夫かと聞かれる。見た目がピンピンしているのに調子が悪いですともいえず、明日は行きます、と答える。
そして金曜、土曜は登校。そのあと週末にダラけて生活サイクルが狂って、また翌週行かなくなる、を繰り返すような感じだった。
これには流石の祖母も学校に行け、と口酸っぱく言うようになったが、反抗期だったし、実力行使できないことを知っていたので、生返事ばかりで耳を傾けなかった。
ついに音を上げた祖母が父にチクった、いや、流石にこのままでは自分がろくでなしになってしまうと訴えた。
それで流石に祖母には任せておけない、となり再び父の監視下におかれる事になった。