[読み物-03] 住まいで振り返る半生記【38】

部屋番号20 - 東京都世田谷区某所(その5

もう少し仕事の話をしたい。
片頭痛に端を発する病院通いが原因で、それまで勤務していた派遣先が契約打ち切りになってしまった話は前回書いた。
派遣業は案件が終了すると、大抵の場合は営業が次の案件を探してきて、今度はそこで仕事をする流れになるのだが、このときは次の派遣先がなかなか決まらなかった。

なんとなく、派遣元からも見切りをつけられてしまったような気がしたのだが、そうであるとは直接言われなかった。営業に問い合わせると、一応、探しているんですけど。。。と言われる。こちらも見切りをつけた方が良いのかな、とも思ったが、自分が未成年の頃から仕事を探してくれた恩義もあるので、自分からヨソ探します、とは言いづらかった。


そんなわけで、その派遣元が紹介してくれる案件を待っていたが、ひと月経っても決まらなかった。契約は基本的に時給制なので、仕事をしていなければ収入がゼロになる。なけなしの貯金を切り崩してやりくりしていたのだが、その貯蓄が底を尽くまでにそれほどの時間はかからなかった。

給料がもらえなければ家賃が払えない。家賃が払えなくなったら追い出される。追い出されても帰る場所がない。もちろんあの実家には何があっても戻りたくない。実家に帰るくらいならホームレスにでもなった方がマシだ。
まぁ、この部屋は安く借りられているので、仕事を選ばなければ糊口をしのぐことくらいは出来るとは思うが。。。


見切りをつけられたから、というのもあるのかもしれないが、景気そのものが自分が高校を卒業した頃から小刻みな上下を繰り返しながら徐々に後退していることのは肌で感じていた。それに影響して仕事そのものが少なくなっていることもあったように思う。
ともかく、その時は仮にこのまま派遣を続けて次の仕事が見つかったとしても、その先が続かないのではないか、という不安を感じた。


数年前(18.の頃)に結成したバンドは、オリジナル曲もレパートリーに加えて割と熱心に活動を続けていた。徐々にそうした業界の人とも面識を持つようになり、プロ活動という言葉が頭の片隅にチラつくくらいには育ってきていた。
その展望がもう少し明確なものになるまでは派遣を続けようと思っていたのだが、こうなってはどうしようもない。そろそろ年貢の納め時、という奴なんだろう、と思った。
プロミュージシャンを目指して、と言ったものの、それほど血眼になって追い求めていた夢ではなかったせいか、目先の生活に不安を感じる状況において割とあっさりと諦めがついた。むしろ、これで心置きなく正社員としての仕事に専念できると思ったら肩の荷が下りた感じすらあった。


だだ、正業に就くにあたってひとつだけ気がかりがあった。それは採用面接である。とっさの受け答えが得意ではないので、面接をすることに自信がない。
派遣の場合、基本的にスキルシートと言うものが事前に相手先に展開されており、顧客に吟味をしてもらったうえで、希望があって初めて面接なので、志望動機を聞かれることはまずない。ほとんどの場合、仕事の内容の説明と雑談で終わるので、プレッシャーを感じることがなかった。そういう面も派遣の仕事をズルズルと続けてきた要因の一つだったりする。


だが、正社員雇用を目指すのであればそうも言っていられない。面接をせずに採用してくれる会社など聞いたことがない。流石に覚悟を決めて臨まざるを得ないな、と思いつつネットを検索していたら、紹介予定派遣というサービスをやっている会社があることを知った。最初は派遣社員として企業に派遣されるが、企業と労働者双方の合意があれば、3か月後にそこの正社員となれることが前提となるタイプの派遣である。インターンみたいなものか。
これなら面接への不安を回避できる。これだ!とその会社に登録したところ、年明けから新たな派遣先が決まった。


こうして、2か月間の無職生活は幕を下ろした。
高校以来の長期休みとなった訳だが、いつ自分の仕事が決まるのかという不安抱えつつではあったものの、開き直ってあちこちドライブに出かけたり、根詰めて作曲したりして過ごしたのは、今思えば貴重な体験だったと思う。


新たな派遣先は、都内の某企業の社内IT業務で基本的に何でも屋だった。従業員100人くらいの中小企業で、自分含め2人でIT周りのお守をするのが仕事だ。ITまわりのヘルプデスク業務から始まり、サーバー構築、アプリ開発、ベンダーコントロール、PC展開、ネットワーク敷設、自社Webサイトの更新。。。本当にITよろづやであった。

小さい会社なのでIT以外の仕事も沢山あった。今までは自分の担当する仕事だけをやればよかったのだが、ここではそうもいっていられない。自分の担当以外の仕事はしたくない、と言う人もいると思うが、自分は全体像が掴めた方が仕事がやりやすい、と思うタイプなので、あれこれ巻き込まれながらの仕事も存外に楽しめた。なにより会社という組織の仕組みや運営について色々知ることが出来たのが面白かった。

3か月目に予定どおり正社員志望を出して晴れて採用となった。長い遠回りだったが、これでようやく人並みになったということだろうか。


その会社に就職してから暫くして、職場の同僚の子と仲良くなった。まぁ、今のカミさんなんだが。
お付き合いを始めてほどなく我が家にも遊びに来るようになった。こんなボロアパートを見せるのは憚られたが、家に上げたら部屋のアンティークぶりが存外に心地よかったようで、以後入り浸るようになってしまった。
入り浸るようになると、家で食事を作ってもらうことも増えてくるが、いかんせんあのキッチンである。せせこましく調理している姿を見てると申し訳ない気持ちになってくる。


就職して1年が過ぎ、ようやく懐具合も回復し始めたので、もう少しまともなところに引っ越したくなった。
彼女にもっと快適なところに引っ越そうと思っていることを伝えると、別にこの家に不自由を感じていない、といわれた。それで、はいそうですか、と言ったら自分の沽券にかかわると思い、少しずつ物件探しを始めた。

この家で既に半ば同棲のような生活にはなっていたが、この調子で同棲生活が続くことを考えると、もう少し使いやすい部屋がいい。バス、トイレは別、広いキッチン、できれば新しい家。。。
だが、近所でそんな物件は見つからなかった。そこで再び調布市方面を視野に入れて探してみたら、いい感じの物件を見つけてしまった。
見学に行き、一目見て気に入ってしまい、独断で契約を済ませた。それを彼女に伝えるとちょっとムッとしていた。その理由が当時は分からなかったが、まぁ、若かったんだろうな。


ともかく、契約してしまったので、引っ越しである。
入居の際に、自分でいじったところは退去時に原状回復すると言う条件だったが、このままにしておいた方が絶対次の入居者もうれしいだろうと思い、大家に退去の旨を知らせに行ったついでに聞いてみたら、部屋の中をチェックされて、結局このままでよい、ということになった。


2005

この家は3年住んだ。建物は古いし色々不便もあったが、精神的満足度は高かった。
件の階段の古い窓も、開放すれば気持ちの良い風が家の中に入って快適である。休みの日に階段に腰掛けてお茶をしたり本を読んだり、お気に入りの場所であった。


退去して数年後、3.11があった。地震後の身の回りのバタバタがひと段落してふとこの部屋のことが頭をよぎった。改築しまくっているし、建物も安普請なので、もしかしたら倒壊してるんじゃないかと思ったのだ。
とはいえ、所詮過去に住んでいた家である。近くに行く用事もあまりなかったので、なかなか確認しに行く機会がなかったが、数年経って近くを通る機会があったので、ついでに立ち寄ってみたら、意外や意外、建物は変わらない姿でしっかりと残っていた。

いつまでここに建ち続けるのだろうか。

Posted by gen_charly