[読み物-05]親父、旅立つ【1】
唐突で恐縮だが数年前に父が他界した時の話を書きたい。
これまでも車好きのオヤジとして数々のエントリにその名を登場させているが、実は糖尿病を患い長いこと闘病生活を送っていた。発症は35年前、以降それに伴う合併症によって幾度となく死地を彷徨ったりもしたが、その都度生還を果たしてつい最近まで元気に過ごしていた。だが亡くなる1年ほど前から急に体力が衰えて79歳でその生涯を終えた。
この読み物シリーズの過去エントリでも紹介したが、我が家はちょっと複雑な家庭で身内はこの父しかいなかった。だが自分はそんな父について正直なところどういう人なのかよく知らないのだ。自分が幼いころはあまり自宅に戻ってこなかったし、小学生から中学生の一時期は祖母に預けられ父と離れて暮らしていて、更に高校卒業してからすぐに親元を離れ独立してしまったので、これまでの人生で父の姿を毎日見るような時期があまりなかったからだ。
だから父が糖尿病を患った後どのように過ごしてどのような闘病生活を送っていたのかについても実はよく知らない。ただ亡くなって改めて振り返ってみるとその闘病はなかなか壮絶なものであった。そこで自分が将来同じ轍を踏むことの無いよう、記憶が薄れる前にそのことをまとめておきたくなった。
病気に対峙する父の姿勢は正しいと思う部分もある一方、明らかに反面教師として捉えなければならない部分もあった。そういったことを将来の自分が読み返して参考に出来るようにしておきたいと思ったのだ。もちろん見返さずに済むことが一番なのだが。。。
父の病歴というきわめてプライベートな事柄を書くわけなので、書き上げたのは良いが公開することについては少しためらった。そのまま店ざらしにして2年くらい経ってしまったが、まぁ本人は既にこの世にいない訳だし、生前あまり人付き合いのよい人ではなかったので、誰が読んでも父であることを特定されることはまずないだろうと思って公開することにした。
なお、最初におことわりしておくが、本エントリ内で触れている種々の症状に対する機序や治療法などは、医師から聞いた話だったり、あるいは自分が調べたメモが元になっている。ただの受け売りであり専門的な知識に基づいたものではないので、誤解などが含まれている可能性がある。鵜呑みにしないようご注意いただきたい。
4x歳、糖尿病発症:
自分が幼かった当時の父は自身が立ち上げた会社が軌道に乗り始めた時期だったこともあって、会社を大きくするために日々奮闘していた。そのため家に帰ってくることはあまりなく、また取引先とのお付き合いなどもあって殆ど外食に頼っていたようだ。
その家庭を顧みない態度に愛想を尽かしたお袋から数年後に三行半をつきつけられ離婚してしまうのだが、自分は父に引き取られることになった。父は仕事人間なので家事は二の次で、小学生の自分もまたロクな炊事が出来ないので食卓は外食かコンビニの弁当であることが多かった。
そうした食生活が続いた結果、自分はブクブクと太るだけだったが、既にミドルエイジも中盤に差し掛かっていた父の体は確実に病魔に蝕ばまれていった。
後に父から聞いたところによると、ある日猛烈なのどの渇きを覚えてたまらずポカリスエットを買って飲んだそうだ。だがそれでも渇きは治まらず2本、3本と空けたらしい。それからも調子が悪い日が続いたので病院を受診したところ、糖尿病を発症していることが発覚したということだった。
発症前後の時期は父の身の回りで立て続けに不穏なことが起こっていた。会社は急に業績が悪化し始め、妻からは三行半を突きつけられ、おまけに子供を1人抱えることになってしまい、しゃかりきに仕事をしたくとも集中して取り組めない状況に陥っていた。人ごとのように書いてしまっているが、自分が父の足かせになったことは容易に想像できる。実際、離婚してからの父はそれまでの柔和さがなくなり、たまにこっぴどい仕打ちを受けることもあった。そういう父に恐怖を感じたことがなくもなかったが、まぁ今となってはそのストレスたるや相当な物であっただろうことも思い致すことができる。
そうした中での糖尿病発症である。今後どうして生きて行けばよいのかとても困惑した、という話は自分が大人になってから聞かされた。
これはわが身に置き換えてみるとその深刻さが身に染みて分かる。もはや絶望でしかない。
子育てなんかロクにしたことがないのに慣れない子育てをしていかなければらないが、自営の会社なので仕事も手を抜けない。手を抜けばそれが覿面に結果になって跳ね返ってくる。しかも業績悪化中なのでどうにかして立て直さなければ明日のおまんますらどうなるかも分からない。そんな状況下で慢性疾患にかかったのだから今後も同じように仕事が続けて行けるかすら分からない。
自分が働けなくなったら育児はどうする?そんな状況に陥ったら、自分なら容易にそのプレッシャーに押しつぶされそうな気がする。よく前向きに過ごしてこれたものだと思う。今、自分が同じ立場に置かれたらチビを片親で育てて行ける自信はない。
治療開始と初期の合併症:
治療はまずインスリン注射による血糖値の調節を行うことになった。
インスリン注射は専用の注射器で太もも、ないしは腹部に自ら注射を行う。最初のうちは注射が痛くて嫌だということを言っていた記憶がある。だがやがて針を刺す場所によってすごく痛い所と、ほとんど痛みを感じないところがあることに気づいたらしく、すると痛くないところばかり打つようになりその部分が内出血で黒っぽくなってくる。医師からそれだと良くないからなるべくまんべんなく位置を変えるようにと指導されるが自ら痛いと分かっている場所に針を刺すのは本当に苦痛だったらしい。
そしてもうひとつの治療の柱は食事制限である。改めて言うまでもないことだが糖尿病は治らない病気である。即ち一生付き合っていかねばならない。病状の悪化を少しでも食い止めるために食事制限を行って体に負担をかけないようにしなければならない。
だが食事制限の内容は厳しく、甘いもの、しょっぱいもの、脂っこいものが全てNGとなるので厳密にそれを守ると毎日の食事がかなり味気ないものになる。それは戦後間もない時期に幼少を過ごした父にとっては昔を思い出させるのか相当嫌なことだったようだ。
食事は毎日シャカリキに働いた自分に対するご褒美という側面もあるので、体を守るためとはいえそれはそれで慣れるまではストレスフルな状態になるのも理解できる。
こと父は昭和の亭主関白の時代を生きた人間なので人前では割と強がるタイプである。1人の時にどうしていたかは知らないが、誰かといる時に周囲の助言に耳を傾けることはあまりなかった。もちろん自分といる時も例外ではなかった。みじめな姿を見せたくなかったのだろう。
だがそれで不安になるのはむしろ周りの人間である。特に親しい間柄であればあるほど心配になって味付けや選ぶメニューについて口を出してしまう。ところがそうやって口を出すと決まって「俺は食事制限をして細々と生きるくらいなら、好きなものを食べてぽっくり死んだほうがましだ」と強がっていた。
もっとも、後になってそんな強がりが自らの首を絞めることに繋がってしまったことを身に染みて痛感したのではないかと思う。
この病は決してぽっくりとはいけないのである。正しくは、
「食事制限をしてそこそこの体調を維持して細く長く生きる」か、
「好きなものを食べて体を壊して苦しみながら生きる」か、
の2択なのだ。
その後の父はそんな生活習慣が覿面に祟り、体調がみるみる悪化の一途をたどった。
まず最初に体重が減少した。それまで80キロ弱あった体重は1年経たずして50キロほどに減少した。当時の父の写真が何枚か残っているがまさに「ホネ川スジ衛門」である。服が合わなくなっていつもダボダボの服を着ていた。それから視力も低下した。矯正なしだった視力が0.1程度まで悪くなった。視力が低下しても暫くは眼鏡を嫌がって裸眼で過ごしていたが、運転中に困るということで眼鏡をかけるようになった。
その当時、自分は祖母のもとに預けられていたので父の姿は月に2~3回、せいぜい1時間くらいしか見ていなかったので体調変化についての印象はあまりない。
もちろん痩せてきたな、とか、眼鏡をかけるようになったんだな、と言ったことに気が付かなかったわけではないが、それを見て大変なことになっているという風には捉えていなかった。そういう変化が何を意味するのかちゃんと理解していなかったから、そういうものなのだろうと思っていた。
ただそうした時期は長くは続かず、1年前後で体重も視力もある程度戻った。あまりに急激な体調の変化に不安を感じてちゃんと体調管理をするようになったのかもしれない。
ちなみに糖尿病と言えば、一般に糖分の多いものが禁忌とされているが低血糖状態になった時だけは例外だ。食事を取りそびれたりすると低血糖を発症する。このときばかりは速やかに糖分を摂取しなければ命にかかわる事態になる。そこで手の届くところにキャラメルやキャンディーなどを常備するようにしていたのだが、周りの人が低血糖について理解がないので気が付くと捨てられていたり口をとがらせて注意してきたりするのがとても困る、と言っていた。