[読み物-05]親父、旅立つ【4】
動脈硬化による閉塞:
がんはその後も転移が生ずることもなくほぼ手術前と変わらない状態で日々を過ごしていた。一見平穏な毎日を送っているかのように見えた父だったが動脈硬化が徐々に進みつつあって、いつの間にか下肢の動脈と中心静脈が閉塞してしまっていることが分かった。
そのままにしておくとそこから先が壊死してしまうのでステントを入れる手術を行った。
それと手術の影響で横隔膜に隙間ができてしまったらしく内臓が飛び出すようになってしまった。俗にいうヘルニアだ。
みぞおちのあたりに柔らかいこぶのようなものができている。この程度ならお腹に力を入れたりしなければ放っておいても問題はないらしいが、悪化してはみ出す量が増えたら臓器が圧迫されてしまうので再度の開腹手術が必要になるそうだ。
差し当たって痛みや不快感があるわけではないらしく、もう腹を掻っ捌くのは嫌だから腹筋に力を入れないよう気を付けると言ってそのままにしていた。
関節炎、潰瘍:
それから2年ほど平穏な状態が続いた。だが動脈硬化による血流障害は水面下で着々と進行し、左手の人差し指に関節炎が、足の裏に潰瘍ができてしまった。
そんなことつゆ知らず久しぶりに父を訪ねると左手がパンパンにむくみ人差し指には包帯が巻かれていた。何があったのかと聞くと関節炎になってしまってもう骨がボロボロなんだよ、と事もなげに言う。
痛みはあまりないらしいのだが骨が既にボロボロになっているので回復は期待できないらしい。右手が同じようにならないことを願う。
誰が見ても尋常ではないその左手を見て、初めて動脈硬化の恐ろしさを突き付けられたような気分になった。
難聴、眩暈:
関節炎を生じた翌年の夏頃、父がベッドから転落して入院したと連絡があった。
だが転落によってケガをしたのかと思ったらそうではないらしい。当初その入院の理由が分からなかったが後に転落の原因が急な眩暈と難聴によるものだと知った。
1か月ほど入院し回復したということで退院してきた。眩暈については退院までにほぼ解消したようなのだが、右耳の聴力は治らずじまいだった。原因についてははっきりとは分からないということだった。
それ以降、会話の際に聞こえない方の耳の方から話しかけられても聞き取れなくなってしまった、と言っていた。
心不全、肺炎:
当時父と暮らしていた後妻は、ついに私を包み込んでくれるような人に出会った、と言って老いらくの恋に現を抜かしていた。
気持ちは徐々にその相手へとなびくようになっていったが、こちらからそれを咎めることはしなかった。なぜなら、父とはすでに離婚しており当時は内縁の妻として同居しているに過ぎなかったからだ。
とは言っても同居し夫婦のように振る舞っていたのだから、別に父に愛想を尽かした訳ではない。籍を抜いたのは単純にカネの問題である。後妻が亡くなった時にこちら側に遺産相続の権利が渡らないようにしたのだろう。
そうした仕込みが、ここに来て彼女が罪悪感なく情熱的な恋愛を享受する方向へアシストしてしまった格好だ。
当然父としては不愉快な話である。だがやせ我慢の父は出ていくなら出ていけばいい、その方が清々するなどと言って強がる始末。
実際に出て行かれてしまうと日常的に自分の面倒を見てくれる人を失ってしまうことになる訳だから当然不安だったはずである。もちろん我が家とて後妻が父を捨てて出て行ってしまったら知らんぷりを決め込む訳にも行かない。だが我が家はチビの子育てで手一杯である。
最終的にはなるようにしかならないのだが、それでも後妻が考え直して元鞘に収まってくれることを内心願っていた。
結局父とは切るに切れない縁があるから最後までちゃんと面倒を見たい、と言って2足のわらじを履く生活を選択することになった。相手もよくそれでいいと認めたものだ。まぁ言うことは立派だが要はどう転んでもいいように保険をかけておきたいのだろう。お金の面はどうにでもなるのだからもはや自由である。
暫くそうした2拠点生活を送っていた後妻だったが、この年新たな相手と暮らしていくことを決断したといって、とうとう家を出て行ってしまった。といっても父の面倒を見ることを放棄したのではない。生活の軸足を新居に移しただけで自宅には週に2、3度は帰ってきていた。
ただ、毎日帰ってくる訳ではなくなったので父は喜寿を目前にして半ば1人暮らしとなった。
面倒を見てもらっているとはいえ家にいれば何かと口うるさい後妻がいなくなったので、暫くの間は久しぶりの開放感を存分に味わっていたようだ。
ところがこれによって生活が乱れ始めた。特に食事についてはもとよりマメに自炊をするタイプではないうえに手持ちの現金も決して多くはないので、インスタントラーメンなどを買い込んで食べるような生活をするようになってしまった。このことは父の体調に十分すぎるインパクトを与えた。
年が明けてほどなく再び倒れた。診察の結果、心不全とのことだった。また肺炎も併発していた。
当時は新型コロナが猛威を振るっていた時期で父もその感染が疑われた。万一コロナに感染したら真っ先に重篤化一直線の人間である。ワクチンは所定の回数接種していたが、それでも感染したとなれば最悪の事態も覚悟しなければならない。
緊急事態宣言下にコロナ感染して入院すると厳重な管理の元隔離されてしまう。もちろん面会謝絶だし万一死亡すると臨終に立ち会えないばかりか、死顔すら見られないまま火葬されて骨にされてしまう。要は次に対面するのは骨壺に収まった後ということだ。遺体からウィルスが飛散する可能性があるためこうした措置が取られているのだが、それにしても実際そうなってしまったら悔やんでも悔やみきれないだろう。
幸いにして結果は陰性であった。ただし心不全の方は心臓の血管が詰まって動きがかなり衰えているらしく、心臓の中に溜った血液を送り出せなくなったことで発症したものということだった。まさに不摂生が覿面に影響してしまっている。
体力の低下もあって回復にやや時間がかかり、入院はひと月半ほどに及んだ。ただしその間病院で厳重な体調管理のもと過ごしていたこともあって退院時には体調がしっかり戻っていた。
退院の知らせを聞いてすぐに会いに行きたかったが何しろこのご時世である。コロナが厄介なのは無症状でも感染していることがある感染症であることだ。万一自分がコロナに感染していることに気づかず実家になんか行った日には、無事陰性で難を逃れた父を再び死の縁に追いやってしまうことになるかも知れないのでなかなか行くに行けなかった。
とはいえこの調子で1人暮らしをさせるのは色々危険ということで、後妻の命により妹が父の面倒を見るために実家に移り住むことになった。
妹は当時外出する仕事をしていなかったので、コロナに感染するリスクが余り高くなかった。
再入院:
退院して半年ほどは妹の介護の甲斐あって再び平穏な日々を過ごしていた。
だが既に心肺機能がかなり衰えていた父は、家の外を自由に歩き回れなくなるほどに衰弱していた。これまで飼っている犬の散歩などをして過ごすことを生きがいにしていたがそれもままならなくなってしまった。
足腰が弱って判断力にも衰えが出始めているにもかかわらず、車に乗るのをなかなかやめようとしなかったので周囲をハラハラさせたが、それもこの年の暮れには殆ど乗ることがなくなってしまった。
そして年末に再び入院となった。この時は狭心症となっていたらしく心臓に水がたまったと言っていた。
入院したまま年を越し年明けに退院してきた。
転倒による仙骨骨折:
心臓が弱った父はやがて自宅で自力で入浴することも難しくなった。妹も流石に入浴の介助までは出来ないということで数か月前からデイサービスを利用するようになった。
狭心症での入院から退院して次のデイサービスに出かけようとした際、風にあおられて転倒し腰を強打してしまった。
デイサービスの職員によって自室のベッドまで運ばれ、そのままベッドで数日を過ごしていたが一向にベッドから動ける状態にならなかったので再び入院することとなってしまった。前回の退院から1週間と空いていない。
調べたところ仙骨の骨折が判明。と言っても仙骨の骨折は放置して治るのを待つよりほかないそうだ。その間身の回りのことが出来なくなってしまうので体力などが低下しないようにするための入院であった。結果、再びひと月半の入院生活となった。
入院したのが年明け間もない時期だったので退院するころには季節が初春になっていた。
退院後辛うじて自力歩行が出来るところまでは復活したが、家の中を歩くのが精いっぱいとなってしまい、いよいよ介助なしでの外出が出来なくなってしまった。