[読み物-05]親父、旅立つ【5】

足の炎症:


退院して程なく父に呼び出された。部屋の模様替えをしてほしいという。
少し前の妹家族の移住に際して自宅の部屋の配置換えがあり、父はリビングに近い部屋から玄関に近い部屋に移動となったのだが、それから程なく片足の指2本に炎症が出るようになった。不吉に思っていたところ、西向きに仏壇を配置するとあまり縁起が良くないということが分かったらしい。実際、仏壇は部屋の東側の壁際に置かれておりその正面は西を向いている。足の炎症もそれのせいだと思うので速やかに配置を換えてほしいということだった。

部屋の中には他にも家具があるのでパズルのように少しずつそれらをずらしながらでないと仏壇を西側の壁面まで移動できない。そういう力仕事こそ自分の出番である。力仕事ならいくらでもやるよ、と言って朝から何時間かかけて部屋の模様替えをした。仏壇を指示どおりの場所に配置し終えたら、父はこれで炎症も回復するはずだと喜んでいた。


炎症と言う表現を使っていたがその実態は壊死だった。血管が細くなって十分な血液が行き渡らない状態になると、体の末端部から壊死が始まる。壊死が始まったらその進行を防ぐためは患部を切除する必要がある。糖尿病患者が最末期に足を切断したという話はよく聞く。

父はかつて大物演歌歌手と親交があって大いにかわいがって貰っていたことがあった。その歌手も糖尿病を発症し最晩年には足の切断を余儀なくされている。彼が闘病生活を送っている頃父もまた闘病生活のただ中で、彼が痩せ衰えて足を切断した姿を見た時には自身の未来の姿に重ね合わせてしまったのではないだろうか。

実はその仏壇も彼の薦めで購入した物だった。父は祖母の宗教狂いに散々振り回された過去があったので、自身は宗教という物をおしなべて拒絶し無宗教を標榜していた。なのでその購入も全くのお付き合いだったのだがなぜか手放すに手放せないまま今に至る。自身の足が壊死し始めていることを知ったとき、家の仏壇を見てその歌手の姿が脳裏をよぎったことは想像に難くない。特定の宗教を信心することはなくともゲンを担ぐくらいの宗教心はあったのかもしれない。


父の場合、現時点では壊死がまだそれほど進行していないので投薬治療で進行を食い止められないかチャレンジすることになった。もし進行を食い止めることが出来れば切断は回避とのこと。父としては足を切断してしまったら今まで以上に自分1人で何もできなくなってしまうので、できるだけ温存させたいと考えているようだ。まぁそう考えるのが普通だと思う。

父は家にいるときは大抵テレビを見ている。外出できなくなるといよいよ1日中デレビをぼんやり眺めるだけの日々になってしまう。流石にそれでは刺激が少なすぎるので、せめてものボケ防止の意味合いも込めて父が若いころから撮りためた写真をスキャナでスキャンしたものを家で使わなくなったパソコンに落とし込んで渡すことにした。

その枚数はざっと1万枚を超える。日々数分でも気が向いた時に開いてみてくれたら気分転換になるのではないかと思う。
父に簡単に使い方を説明し、何枚かデモンストレーションで写真を見せたら大いに感心していた。ゆっくり見るのが楽しみだと言っていたので良い暇つぶしになってくれるとよいのだが。


外の空気を吸わせる:


部屋の配置を変えてから数か月後、後妻から連絡があった。日々変化のない生活が続いているせいかこのところ元気がないので、たまには外に連れ出して欲しいとのことだ。心配しつつ実家を訪ねると思ったよりは元気そうだったが、会話こそ普通にできるものの声にハリがない。外出と言えば週3回の透析と週1回のデイサービスだけでそれ以外は自宅で過ごしている。

父は人をもてなすのが好きな人である。自分たちが実家に遊びに行くと自ら動いてお茶や食事を出したりしてくれていた。動かさせるのが申し訳ない気もするのだが、体力の維持のためにあえて自分が手伝うようなことはしなかった。

ところが妹家族が同居するようになって以降リビングを占拠されてしまった。気兼ねしたのかこのところは自室にこもりがちになっている。屋内の移動であってもそれなりに体を動かすきっかけにはなっていたし、気分転換にもなっていたようなのだが、自室へ引きこもってしまうと見える景色が一切変化しないので刺激が圧倒的に少なくなる。前回訪問時も少し覇気がなくなった感じがあったが、ここ数ヶ月でさらに元気がなくなったように見えた。


ともかく外に連れ出すことにした。
折角だから山とか海とかきれいな景色を見せてあげようかと思っていたのだが、父に希望を聞いたらショッピングモールに行きたいと言われた。

ショッピングモールか。。。何もわざわざそんなどうでも良い所に行かなくても、と思ったが考えてみたら店をあてもなくぶらつくのは父の楽しみだった。そういう賑やかな場所にいる方が寂しさが紛れるのかもしれない。

父がそういうならと近所のイオンモールに出かけることにした。歩くことができないので車いすに乗せる。誰かを車いすに乗せて押して歩くのは初めてだ。イオンモールなので店は沢山あるが、ブラブラとウインドウショッピングができればそれでいいらしく、どの店に行くでもなく館内を車いすを押してウロウロした。

依然コロナ禍は継続中であるが、この所自粛ムードに緩みが出てきているせいか店内には多くの人出があった。感染が心配なので極力他の人に近づかないように注意しながら散策した。


昼食は父の希望により館内のフードコートで食べた。気づくとまたしても揚げ物を食べている。
振り返れば父はチェーン店系の店で食べることを好んでいた。実家を訪ねた折に昼食や夕食を食べに行くとなると大抵近所のチェーン店などに行こうと言われる。自分としてはどこにいても食べられるありきたりな店ではなく、地元の知る人ぞ知る個人店などに連れて行って貰えた方がうれしかったのだが、父がそれを希望しないので従わざるを得ない。

ただ今になって思えば、父は個人店しかなかった時代からチェーン店が軒を並べる時代にかけてを生きてきた人間だ。父が若い頃はそれこそお店によって当たり外れが大きいのが普通だったのが、チェーン店の登場によりどこへ行っても同じ味の料理が食べられるようになった。

これは相当に画期的な出来事だったのかもしれない。凄くおいしい訳でなくともハズレにあたる心配なく安心して食べられることがマストなのだろう。そう考えたらチェーン店へ行きたがる理由もなんか納得出来たのだった。


実家に父を送り届け一休みをしている時に、父の過去や周りにいた人たちの事についてそれとなく聞き出してみた。いくつか新しい知己を得ることができたが記憶はやや曖昧になってきているようで、聞いていて話のつじつまが合っていないなと思う所もあった。
ただ話の腰を折るのも何だったのでそのまま好きなように話させた。

ショッピングモールをウロついたのはわずか2時間程度だったが、父にとっていい気分転換となったようで家に帰ってくる頃には表情に明るさが戻っていた。また近いうちにどこかに出かけようと思う。

帰り際、少し前に渡したパソコンを見たらホコリをかぶっていた。全く開いていないらしい。物事への関心が薄れてしまったのだろうか。


壊死した指を見る:


そして季節は盛夏に突入した。再びどこかに散歩に連れ出そうと思って連絡を入れた。
その翌日、朝起きたら携帯に父からの不在着信が入っていた。マナーモードにしていたので気付かなかったのだが4回も不在着信が入っている。

ただならぬことが起こったのではないかと慌てて折り返しを入れると、電話に出た父の声は寝起きのようなぼんやりとした声だった。

何事かと聞くと朝方にベッドから落ちて自力で起き上がれなくなってしまったのだが、家にいる妹を呼んでも来てくれなかったので、助けを求めて電話を掛けたらしい。まさか今ものその状態なのかと聞くと、その後部屋にやってきた妹に介助してもらったので今はもう大丈夫だ、と言っていた。

続けて、ところでお前朝からバイトに行くって言っていたけど、大丈夫なのか?と聞かれた。

唐突にバイトの話を出されて一瞬何の話をしているのだろうと戸惑った。もちろんバイトなんかしていない。何と記憶違いをしているのだろうか。しかも助けてくれと言われても自宅から実家まで片道2時間かかる。そのことも忘れてしまったのだろうか。

これはもしや認知症だろうか。。。数日後には実家に行く予定だが、顔を忘れられていたらどうしよう。


不安を抱えながら実家に足を運んだ。
だが、その日の父はいつもどおりだった。会話も普通にできた。ただ、だいぶ元気がなくなってしまっている。そして前回と比べてさらにやせ細ってしまっていた。特に肩回りなど骨に皮が付いているだけのような状態だ。

このところ、立て続けに入退院を繰り返している。その都度4~50日程度入院している訳で、家にいる以上に刺激の薄い日々が続くからか、認知能力に衰えが出るようになってきているのかもしれない。と言っても今日のように普通にしている日もあるのだから、常に認知異常という訳ではなく、まだらボケのような感じなのかもしれない。

父にまたどこか連れて行こうか?と聞くと、今回はいかないという。足が痛くて地面につくのもままならないから出る気にならない、と言われた。足は全然よくなっていないらしい。


無理に連れ出しても仕方ないので、分かったと言ってその日は家の中でおしゃべりをして過ごした。
前回の散歩のときは介助しながらではあったが自分で車まで歩いて行くことができたが、今はもはや自力で立ち上がることも出来なくなっており、トイレに行くときも肩を貸さなければいけないような状態だった。

明らかに体力が衰えている。このまま衰弱していくのを見守ることしかできないのだろうか。


帰る間際に足のガーゼを交換してくれ、と頼まれた。
普段は妹がやってくれているのに、なぜ唐突に自分に交換を頼んだのかが分からなかった。なにしろやり慣れていないのでどうやればよいかも分からない。

父が折り入って頼んでいるのを無下に断るわけにもいかず、見よう見まねで交換してみることにした。
恐る恐るガーゼを剥がしたらそこにあったのは真っ黒に変色した足の指だった。しかも付け根の部分は骨が見えるほど大きな穴が開いている。こんな状態になっているとは想像もしなかった。

壊死が始まったとき医者は温存にチャレンジすると言い、今もその方針で治療を続けている筈だが、こんな状態で温存なんて出来るものだろうか。本当に今のレベルならまだ希望が持てる、と言うことであれば良いのだが、本当は切断しなければならない状態に至っているのに父の判断に阿って判断を先送りにしているのではないだろうか。所詮素人考えなので専門家に口を出してもしょうがないとは思うが、本当に大丈夫なのだろうかと疑問に感じた。

もちろん切らずに回避できるなら、その方が本人にとっても良いことである気はする。いずれにしても父の判断なので尊重してやっていくしかないのだが、それで手遅れになるような事態だけは避けなければならない。


ガーゼを交換しているとき父が、医者からこんな状態だから切ったとしても切らなかったとしても、どんなに長くてもあと10年程度の寿命だよ、と言われてとてもがっかりした、という話を後妻に話したらあいつ、あと何年生きるつもりなんだと言って笑いやがるんだよ。。。と不満そうに話した。

末期がんの際、術後の1年後生存率がかなり悪いので、手術をしてもあと1年生きられないかもしれないと医者から言われていた。当時生まれたばかりのチビの顔を見せながら、せめてチビがランドセル背負うところまでは見たいよねと話したことを覚えている。だがあれは半ば励ましのようなもので、実際にランドセル姿を見せることはかなり難しいだろうと覚悟していた。なにせチビがランドセルを背負うのは6年後の話である。


ところがどっこい今もこうして生きている。チビのランドセル姿を見せることも出来た。無理だろうと思っていた奇跡が起きたのだ。
振り返れば脳梗塞で倒れてから25年、人工透析を始めてから8年ほどが過ぎた。それまでの間に何度も死の淵に立ちつつ奇跡的に生きながらえてきた。そう考えたら今生きていることがもはや奇跡だ。案外、今回の足の壊死も無事回復してしまうのではないかという気がしなくもなかったが、そうはいってもあと10年の余命はかなり高望みであるような気がする。

でも本人はそう思っていないようだ。それでがっかりしたというのなら本当は後何年生きたいのだろうか。そう思って聞いてみたら、そうだなチビが成人するまでかな、と本気なのか冗談なのか分からない顔で言った。

そりゃ後妻の言うとおりだよと自分も軽口を叩いて笑い飛ばした。だが周りから死ぬ死ぬ詐欺なんて軽口を叩かれるくらい奇跡の連続でここまで乗り切ってきた父のことである、あるいはもうワンチャンあるのかもしれない。そうなったらいいなと思いつつガーゼの交換を続けた。

交換している最中、時々鋭い痛みが走るらしく足が痙攣するようにぴくぴくと動き、それに合わせて顔をしかめている。自分みたいなド素人にこんなことさせてよいのだろうかと不安だったがどうにか交換を済ませた。

今になって思えば、この時の交換の依頼はタイミング的なものではなく、自身の体の状態をありのままに見て貰おうと思ってのことだったような気がする。

Posted by gen_charly