[読み物-05]親父、旅立つ【8】
最後のお見舞い:
手術が終わって3週間が経過した。月曜日に父の容体について医者から報告があるというので妹が話を聞いてきた。それによると手術以降食事が殆ど取れていないらしい。回復は殆ど見込めない状態で今日明日に亡くなってもおかしくない状況に陥っている、とのことだった。
こちらの病院もコロナ禍のため通常は面会禁止なのだが、例によって特別に面会の許可が下りたということだったので急遽面会の予約を入れて父の見舞いに行った。
前回の病院は2人で1度だけと言われたので後妻と2人での訪問とならざるをえず、カミさんとチビを連れて行くことができなかったが、今回は1人1回までだが2名ずつなら何名でも良いという許可が出たということだったので今回はカミさんを連れて行くことにした。未成年は面会禁止とのことでチビを連れて行くことができなかったのが残念だがルールがそうなっているのだから仕方がない。
看護師の案内で父の病室に入る。ベッドに横たわった父は見る影もなくガリガリに痩せてうつろな目をしていた。自分らが入ってきてもそれに気づかなかったが近くへ行って声を掛けたら視線をこちらへ向けた。自分とカミさんが来たことに気づいたら、開口一番、涙が出てきたと声を絞り出した。だがその目に涙は浮かんでいなかった。流す涙も湧いてこないような状態なのだろうか。
まずは今の具合について聞いてみた。が、何かをしゃべろうと口を動かすものの、息が漏れるばかりで声になっていない。もはやしゃべる力も失ってしまったのか。
父はなにやら一生懸命に自分に何かを語り続けた。だがなんと言っているのか全く聞き取れない。いつもだったら聞こえないからもっとはっきり言ってと聞き直すが、というか聞き直したかったが、この状況ではそれをいってどうにかなるものでもない気がしたので聞こえているふりをして相槌を打った。
時々動きが止まったようになるので心配になって声をかけると更に何かを語り続ける。驚くほど長くしゃべり続けているのだが、全く声になっていない。そのことに父自身は気がついていないのか。
父は我々に何を伝えたいのだろうか。自身の死期を悟って締めくくりの言葉を述べているのか、はたまた夢うつつで楽しい思い出話でもしているのか。。。
辛うじて聞き取れた単語から頑張って話を繋ごうと思ったが無駄な努力だった。こちらが問いかけても頷くとか首を横に振るとかそういうことも出来なかったので、分かったような返答をして見せたが、恐らく話したことが伝わっているとは思わなかったような気がする。
本当に聞き返さなくてよいのか判断に困った。
それからつい数日前にチビがピアノ発表会で演奏してきたときの動画を見せた。演奏した曲はエリーゼのためにである。自分が幼いころ父が家にあったエレクトーンで冒頭の部分をたどたどしく弾いて得意げになっていたことを憶えている。それを聞いたのが自分が楽器演奏をやってみたくなった遠いきっかけだったりする。
意外にもこの演奏は食い入るように聞いていた。やはり知っている曲だからだろうか。映像は見えていたのか分からないが首を傾けて耳をスマホに寄せるしぐさをした。
曲を聞かせたあともまたしきりに何かを話していた。息が漏れるばかりで声帯が震えていない。よくドラマなどで瀕死の人が声にならない声で何かを言うことがあるが、本当にそうなってしまうのだなと思った。
医者の説明を聞くまでもなく父に残された時間がもうごく僅かでしかない状態であることはよくわかった。恐らく次はない。であればこの場で今まで育ててくれたことのお礼を伝えた方がいいのだろうか、いやそんなこと縁起でもない、希望を持って貰えるような励ましの言葉をかけ続けた方がいいのか、とても悩んだ。
結局お礼は言えなかった。チビは病院には連れてこれないから、また会いたかったらご飯をしっかり食べて体力をつけて退院してこないとダメなんだよと伝えた。会話が成立しない父の姿を見続けるのが忍びなくて、程なく病室を後にした。
去り際、父は自分の方を何か心残りがありそうな目で見ていた気がするが、最後腕を力なく挙げて手のひらを見せた。昔から父はサヨナラの時に手を挙げるだけで左右に振らなかった。気取り屋だったのでそういうポーズがカッコいいと思っていたのだろう。ひと月前に手術をする時も同じだった。
演奏に耳を傾けていたことや自分らが退室する旨を伝えた後に手を挙げた所をみると、もしかしたら自分の意思が表現できないだけで父の意識は見た目以上にはっきりしていたのではないか、と思った。だとしたらちぐはぐな受け答えをして、もはや自分の思いが伝わらないことに絶望してしまったのではないかと不安になった。励ますつもりであったのに絶望を突き付けてしまったのではないだろうか。
ナースステーションでお礼を伝えたら、面会は基本受け付けていないから今後退院まで面会することはできませんと念押しされた。強引に押しかけた訳でもないのに殊更にそんなことを言われて気持ちが少しざわついた。あ、いや後妻が最後ぐらい面会させろとゴネたのかもしれない。
病院を出たあと帰りの車の中で、帰り際に父が手を挙げたのは、またね、と言う意味なのか、今までありがとな、と言う意味なのか考えてしまった。前者なら痛み止めで朦朧としているとかで、状況がよく分かっていないまま単に次に会える日を期待しただけのアクションだったかもしれないが、逆に後者だった場合、自身の死期を悟り次に会う日がもう訪れないことを知ったうえで今生の別れとしての挙手だったのかもしれない。
もう少しゆっくりといて欲しかったな、なんて思っていないだろうか。
自分がもし同じ立場で病室のベットにいたら、今生の別れだというのにチビたちがじゃーねと言って立ち去ろうとしている、待ってと言っているのにそれが伝わっていない、なんて、相当に諦めの境地にでも達していない限り絶望でしかない。そんなことを考えたら胸が張り裂けそうになった。
死去:
見舞いをしてから1日が過ぎ、2日が過ぎた。病院から連絡がないので容体が落ち着いているのだと思っていたが、週末の早朝後妻からの電話で起こされた。後妻がこんな早朝に電話して来ることなんてない。電話に出る前に来る時が来てしまったのだと悟った。
電話に出ると向こうで後妻が取り乱している。取り乱しながら父が亡くなったと報告があった。
危篤の時は病院から連絡を貰えることになっていたが、着信履歴を確認しても他に履歴は入っていなかった。恐らく後妻も連絡を受けた時点で既に亡くなっていたのだろう。
ともかくすぐに病院に向かった。カミさんやチビも起きてきたが2人が準備するのを待っていたら遅くなってしまうし、この後の段取りがはっきりしていないので必要があればもう一度迎えに来ると言って2人は家に残してきた。
病院まで2時間弱の道のり、もどかしさを感じながら車を走らせる。ただ、運転しながらもう亡くなってしまったのだから焦ってもしょうがないよなと思った。
病院に到着し係員に霊安室に案内された。先着していた妹が霊安室前の待合所にいた。霊安室が16℃に設定されていて寒くていられなかったらしい。 最末期の1年あまり父の面倒を一手に引き受けてくれた人である。これまであまり仲良くしてこなかったが、まずは面倒を見てくれたことのお礼を伝えた。
病院からの連絡を最初に受けたのは妹である。状況を説明してもらった。
それによると病院から容体急変の連絡があったので速やかに病院に向かったが、到着時には既に心肺停止状態だったとのこと。医者からの話では電話連絡後わずか2分後には心臓が停止してしまったそうだ。
妹が病院に到着してすぐに医師による検視が行われ死亡確認が為されるまで、容体急変の連絡から20分ほどであったそうだ。そのため誰もが父の臨終に立ち会うことはできなかった。
残念な思いはもちろんあるが死の苦しみを味わう時間が短くて済んだのはある意味でよかったのかもしれない。これまでの長い闘病生活でいつかこの日が来ることは分かっていたし覚悟もしていたのでその報告を淡々と聞いた。
それから霊安室に入った。ベッドの上に横たわる父。顔にかけられた布をめくると数日前に見た時とさして変わらぬ姿で横たわっていた。
口が少し開いてしまっているのでなんだか熟睡しているだけのようにも見える。ほんの数時間前まで生きていた人間なので体もまだ温かい。診断が何かの間違いで今は息を吹き返して眠っているだけなのではないかという気がした。
人間は亡くなるときに目が見えず、臭いが分からなくなっても耳からの情報だけは最後まで脳に伝わるらしい。耳に入る音波は鼓膜で電気信号に変えられて脳に伝わるのだ。心臓が止まったからと言って、脳が活動を停めたからと言って、その信号は脳に伝わろうとするはずである。脳だって血液によって糖が運ばれなくなったら細胞が死ぬとはいっても、亡くなってまださして時間が経っていない今ならまだ一部生き残っているところがあるかもしれない。
だから、声をかけたら何等か反応するのではないかと思った。ばかばかしいが万に一つそんなことが起こりやしないかと考えた。
だが声をかけても何の反応もなかった。父はこれまで幾度となく命の危険にさらされる病気と闘った。だが都度乗り切ってきた。医者から悲観的な見通しを告げられても奇跡的に回復してしまうので、今回は本当にダメかもしれないと周囲に伝えた時も、まぁオヤジは不死身だからなと笑われてしまった。
自分自身も今回もそうなってくれるだろうと、どこかでそう思う気持ちがなかったわけではない。
だが今回はダメであった。10分ほど父の顔をまじまじと眺めながら妹と2人でこれまでお疲れ様と語り掛けた。
今回、壊死した足を切ることになったが、切断してから亡くなるまで1カ月に満たない期間しか生きられなかった。それは切断してもしなくても大して結果は変わらなかったということではないか。もしそうなら仮にひと月ふた月死期が早まったとしても、五体揃ったままで見送ってあげた方がよかったのではないか。。。
今更そんなことを言っても詮無い話だが、そんな思いが脳裏を駆け巡った。
父は何度見返しても眠っているようにしか見えなかった。もしかしたら、今、ここで何かの奇跡が起きてまた息を吹き返すようなことはないだろうか。いや、そうではない。吹き返しても苦痛が待っているだけである。これでいいのだ。
父が死去したのは日曜日だった。病院に患者の姿はなく閑散としていた。いつもならそこいらじゅうに患者の姿があるが今は誰もいない。誰にも看取られず自分の亡骸を衆目に晒すこともなく旅立っていった父、救急車で搬送されることすら嫌がった父らしいなと思った。
その顔は数カ月ぶり、あるいは数年ぶりに全ての痛み苦しみから解放され、久しぶりに安らかな熟睡を楽しんでいるようにも見えた。
おわりに:
父が糖尿病と戦いそしてこの世を去るまでの生き様をまとめてみた。振り返ってみると父が経験した数々の病魔は糖尿病に端を発する動脈硬化やその閉塞に起因したものばかりであった。これらの合併症はWikipediaなどにも想定される合併症としてしっかり明記されていた。そうした合併症を父はひとつひとつフラグを立てるかのように患っていった。
35年前に父が糖尿病と診断された時、自分はその病気がどんなものだか知らなかったし知ろうともしなかった。なのでこの病気がこれからどのような経過を辿るのかもよく分からなかった。
当の父自身があまり悲壮感を見せなかったので、何となく大したことないのだろうと思っていた。
そのせいもあってその時父の身にどんなことが引き起こされていたのか、あるいはどのようにして病気を受け入れて行ったのかと言ったことは、父から聞いた話ばかりで断片的なことしか分からない。
そうしたこともあって結果的にここ1年ほどのエピソードが中心になってしまった。
もっと興味を持って話を聞けばよかったな、と今となって後悔する部分もあるが後悔しても始まらない。できるだけ当時の父の病気との向き合い方を忘れないようにして自分が二の舞とならないための教訓としたいと思う。
傘寿を迎えることなくこの世を去ってしまったのは少し早かったなという気もするが、他方、透析を始めてからの平均寿命や末期がんの手術が終わってからの余命については、医師の想定を大幅に超えて生存することができたのでそういう意味では大往生だったとも言える。まずは安らかに眠って欲しいと願う。
チビを連れて実家に遊びに行った時にニコニコしながら出迎えてくれた父の姿はもうない。それは事実として理解しているのだが、その一方でまた家族を連れて実家に行ったら、孫の顔を見てほほを緩める父がいるのではないかと考えてしまうこともある。まぁ、後妻が知らない男と暮らす実家に足を運ぶことなど金輪際ないのだが。
多分誰しもそう言う時期を経ながら徐々に心の整理をしていくのだろう。
(おわり)