[読み物-03] 住まいで振り返る半生記【4】
部屋番号07 - 埼玉県坂戸市某所
ということで、半ば逃げ出すような形で06.のマンションを退去して、坂戸市の某団地の一室に家族4人身を寄せることになった。
当時父は職場を東京に移していたのだが、こちらに戻って来ているときにも業務をこなさなければならないことがあった。だが自宅では、子供がうるさく妻がトゲトゲして落ち着かない、ということで、サテライトオフィスとして借りていた部屋だった。
自分は当然転校である。マンション内の子供たちが当時の自分の人間関係の中心だったのと、通っていた幼稚園からそこの小学校に進学した友達が少なかったのとで、小学校では仲の良い友達はあまり作っていなかった。
なので、転校に対して特別な思いはなかった。まぁ引っ越した先も近所なのでバスと電車を乗り継いでいけばいつでもすぐ会えるから、と言うのもある。
友達に会えなくなる不安より、新しい部屋に住めることにワクワクする気持ちがの方が強かった。
転校がどういうものであるかあまり深く考えていなかったのだが、初日に先生に連れられて教室に入ると見ず知らずの子だらけ。そりゃそうだ。その段になって初めて緊張したことを憶えている。
間取りはこんな感じ。2DKの部屋に逆戻りである。ひらけ!ポンキッキの歌のコーナーで「ルート2DK」という歌があったな。それはさておき。
その部屋は祖母の住んでいる部屋のすぐ近所だったので、祖母もお袋の相談に乗ってあげたりしたらしい。それが転居による環境の変化と相まって、お袋の不安感を幾分軽減させることが出来たようなのだが、肝心の家庭内不和については、お袋に寄り添わない父と、父の苦労を忖度しないお袋の間で溝が埋まることはなかった。
やがてお袋の体調が再度不安定になっていく。昼間布団から出られず伏せったまま、不機嫌に自分らに指図するお袋の姿を憶えている。この頃は食事を作ってもらえないことも度々あって、祖母に作って貰ったり、自分たちで卵かけご飯なんかを作って食べたりしていた。
そして半年ほどで突然終わりがやってきた。
小学校3年生を修了した春休みのある日。弟と2人で近所の児童館で遊んでいたら、急に父が現れて、今からドライブに行かないか?と誘われた。久しぶりに会う父の姿に自分のテンションはMAX。未就学の弟をほっぽらかして1人家までの道のりを全速力で自転車をこいで帰ってきた。
早々と自宅に着くなり、自宅の棟の前で父が佇んでいた。行くぞ、と父に促される。だが弟がまだ帰ってきていない。ほったらかして帰ってきたくせになんだが、1人で行ったら流石に弟から恨まれるだろうと思い、弟を待ちたいと答える。ところが、父は時間がないのですぐに出発したいと譲らない。
弟を待つなら今日のドライブはなし、と言われるに至り、せっかくのチャンス逃してなるものか!と、家にも戻らず、弟の戻りも待たずに、父の車に乗り込んでしまった。どうせちょっとドライブしたらすぐ帰ってくるものだと思っていたので、まぁいいか、くらいの軽い気持ちだった。
だが、車で連れていかれた先は、父が新たに都内で借りていたアパートだった。
それから数日をそこで過ごした。春休みの宿題の事を父からとやかく言われることもなく、口うるさいお袋もいない。とても開放的な気分で過ごすことが出来た。
4月に入って、父から暫くここで暮らさないか、と持ち掛けられた。
自分にとっての父の印象というのは、たまにしか帰って来ないけど、帰ってきたら優しい人、であった。一方お袋は、(今なら仕方なかったと思えるが)些細なことでガミガミと煩い母、という印象だった。そして、弟に対してはお袋から常々、お兄ちゃんなんだからちゃんと面倒を見なさい、と言われていて煩わしさを感じていた。
その煩わしさから解放されるのは願ってもない話であり、なぜ自分だけが父親に連れてこられたのか、なぜ、東京で暮らさなければならないのか、ということに疑問を抱くことはなかった。
もちろん、自分だけ一抜けしたこの状況をお袋や弟がどう思うのかな?という思いは脳裏をよぎった。だが、それを聞いても向こうは向こうでやるから大丈夫、と言われるばかりで、その言葉で納得せざるを得なかった。
結局、この時をもって父とお袋が離婚したわけだが、もちろん明確に説明されたわけではないので、当時はそういう事態になったことを知る由もなかった。多分、普段から仲が悪いから、少し離れて暮らすことになって、自分は父から選ばれた側の人間なんだ、とそんな風に考えた。
お袋や弟はこれまで通り坂戸で暮らして、たまに会いに行ったるするんだろう、と言うふうに理解をしていた。
だが、それは叶わなかったし、お袋たちはもう坂戸にはいなかった。
今でも時々、パラレルワールドの自分はどんな人生を送っていたのだろうかと妄想することがある。
母が自分を見捨てず兄・姉と一緒に暮らしていたら。お袋に引き取られていたら。誰も育ててくれずどこかに養子に出されていたら。それすらもなく児童福祉施設に入れられていたら。。。
そこでより良い暮らしをしていたかもしれないし、もっと悲惨な人生を送っていたかもしれない。それは分からない。
ただ、少なくともこの年に至るまで自分は無事に生きることが出来て、どうにか人並みの生活を送ることも出来ている。それだけがリアルである。
なので、妄想はするけど、今が自分にとって最良の人生なのだと思うことにしている。
小学校は転校してわずか数か月で再度の転校である。しかも同級生に何も言わないままになってしまった。まぁ、そのうち会えるだろうからいいや、と思っていたが、その会う機会がまさか数年後にその小学校に出戻った時だとは思いもよらなかった。
ちなみにここの部屋も、両親の離婚後、なぜか解約せずそのまま空き家のまま借り続けていて、数年後にK林さんが住まうことになった。その辺はまた改めて。