[読み物-03] 住まいで振り返る半生記【21】
部屋番号14 - 埼玉県坂戸市某所(その2)
ところで仕事だが、派遣会社に登録した、とはいうものの、派遣で仕事をするというのがどういうことなのか全く知らなかった。アルバイトとの違いもよく分からない。アルバイトの一種のようなものだと認識していた。
その派遣会社から紹介された現場は前述のとおり千葉県の津田沼にあった。遠いのが難点だが、自分が学校で学んだ技能を活かすことが出来るので、その辺のコンビニで働くよりは割のいいバイトだと考えた。
その現場は2勤制のシフトが組まれていて、日勤が9時~17時、夜勤が17時~翌朝9時というものだった。つまり夜勤は1回16時間勤務で、2日分まとめて働いて1勤、という勤務形態になる。なので、出勤は2日に1回。夜勤の拘束時間の長さは自分にとって未知数の物だったが、学生時代から割と夜型だったのでたぶん大丈夫だろう。
ただ、坂戸から津田沼は果てしなく遠いので、日勤の始業時間に間に合うように毎朝通える自信がない。
面談の時にそのことを話したら、夜勤シフト限定にしてくれると言うことだった。それなら通勤の心配もないので、引き受けることにした。
夜勤オンリーなので満員電車での通勤をしなくて済むのがありがたかった。2勤分まとめて働くので、その翌日は出勤がない。うまく調整すれば、長い夜の時間を遊んだり趣味の時間にあてられたり出来たので色々捗った。
ただ、生活サイクルの面でいうと、14時に家を出て2時間半かけて通勤し、16時間働いて翌朝9時に退勤。12時前くらいにようやく帰宅し、昼食を取りながら笑っていいともとごきげんようを見たら就寝、そして20時過ぎに起床、それからあれこれやって明け方に再度就寝、というパターンになり、完全に夜型になってしまった。
この職場は思い出深い現場だった。
当時はもちろん未成年である。未成年の派遣は受入側も嫌がるらしく、一計案じた営業担当から専門学校卒の20歳、という設定で。とお願いされた。言われるがまま学歴などを口裏合わせをして面談に臨み、結果採用となって初出勤の日。
現場のリーダー格の人とあいさつを交わして、簡単なレクチャーを受けたあと、雑談の場で、
「自分くん、〇〇専門学校卒業なんだって?ぼくもそこの卒業生なんだ。××先生ってまだいる?」
終わった。これダメな奴だ。
まだ入場して1時間。今日あと7時間ぐらいその人と過ごさなければならない。ずっとごまかし通せる気がしない。
営業が知っててハメたんじゃないかとすら思った。
結果、入場僅か1時間で正体をバラすことになってしまった。退場になったら営業から怒られるかなー、という思いがよぎったが、リーダーは、
「ま、仕事さえちゃんとしてくれれば年齢はどうでもいいや。ただ、現場の社員さんにはバレないようにね。」
ということで、打ち切りは免れた。
余談だが、面談に行った日、東武東上線で池袋に向かう途中、車内放送で「丸ノ内線は霞ヶ関駅で発生した異臭騒ぎのため、霞ヶ関駅を通過扱いとしております」というアナウンスがあった。各駅停車しかない丸ノ内線が駅を通過するなんてめったにないことである。
自分は丸ノ内線で東京駅まで行く予定だったが、まだ少し時間があったので、野次馬根性を発揮して東京駅の数駅先にある霞ヶ関駅を通過してみたくなった。
やってきた列車に乗って霞ヶ関駅の通過を体験した。車窓から眺めた霞ヶ関駅はホームにひと気はなくしんとしていて、ただならぬ雰囲気だった。カメラを持参していなかったのが惜しまれる。。。
面談を済ませて帰る途中、駅の掲示板か売店に挿してあったスポーツ新聞の見出しかなんかで毒ガス事件が発生していたことを知った。それはあの忌まわしい地下鉄サリン事件であった。
自分が霞ヶ関駅を興味本位で通過した頃は、事件発生から数時間しか経っておらず、おそらく築地の辺りは負傷者の搬送で大パニックになっていたであろう時間帯だ。犯行の全貌もまだ明らかになっていなかったので、事と次第によっては第二、第三のテロに巻き込まれたかもしれない。
今思い返しても、恐ろしいことをしたな、と背筋が凍る思いだ。
話は戻って、当時、フルタイムで働く生活がどういうものなのか知らなかった。ちょっとしたアルバイトだったはずが、気が付けばがっつりフルタイムで働いている。それが自分の持つ時間の大部分を仕事にあてることなんだ、と分かったのは働き始めて少ししてからだった。
勤務時間が変則的なので、生活も乱れまくった。元から勉強苦手な人間が、こんな生活で勉強に身が入るわけがない。
それで夢と仕事の狭間で悶々としたかと言えば、否である。仕事は自分の経験が活かせる内容だったので、存外に面白かった。
その分、夢の実現はどんどん遠のいていく。13.の家に住んでいたころからピアノを習い始め、週1回通っていたが、それもだんだん練習不足になってくる。レッスンは20時から。夜勤明け後の寝起きの時間なので、起きて通うのもしんどくなってしまった。
結果、目的と手段が逆転してしまうが、夢の実現という本来の目的はひとまず置いて、働くことに専念することとした。
なら、改めて正社員として就職し直した方がよかったのだろうが、そこまでは考えが及ばなかった。
独立生活を始めて数か月が過ぎたある日、久しぶりに父が家を訪ねてきた。なんでも、13.の家を引き払って、後妻が新たに家を建てたらしく、この機に戻ってこないか、というのである。
いやいや、なんでお金借りてまで独立したのか、分かってますか?そこに、帰れと、言うのですかあなたは?
当然、最初は断った。だが一方で、いざ自分で生計を立ててみると、今の収入で家賃と交通費と生活費を賄ったら、全然生活に余裕がないことも分かってきた。実家に戻れば家賃がかからなくなり、その分が節約に回せるというのは魅力的であった。
高校の2年間、心に誓い続けた自分の信念はその程度か、と思わなくもないが、結局何度目かの父の説得に流されてしまったw
その少し前に、職場で仲良くしていた先輩のおじさんが退場することになった。某運送会社の夜勤オペレーターの仕事に転職することにしたという。
で、上の転居話が決まった少し後にその人が再びひょっこり職場に顔を出した。自分を誘いに来たという。
その運送会社は都内に勤務地があり、安価な社宅も完備しているそうだ。それでいて給料は今の倍近い金額がもらえるという話だ。
これは、東京進出を考えていた自分にとってまさに渡りに船。誘いに乗って面接を受けたら採用になった。
それで、派遣元に案件終了のお願いと、登録の解除を伝えに行ったら、今度はその担当が同じ金額出すから別の仕事をしないか、と誘ってきた。その仕事は当時まもなく発売予定だったWindows95のスタートアップ窓口の仕事だという。
今思えば、運送会社の方に勤めていれば、福利厚生や社会保険などは会社が保証してくれたわけで、堅実さでいえばそっちを選んだ方が圧倒的に良かったのだと思うが、今をときめく話題の最新OSの仕事である。汎用機オペレーターよりは、断然そっちの方が面白そうだし、そこを足掛かりにステップアップできれば、というふうに判断してしまった。
結局、誘ってくれた先輩には申し訳なかったが、運送会社の方は辞退させてもらった。
というか、その話、実家へ戻る話が出る前に聞きたかったな。。。
というわけで、職場と住処が同時に変更となった。初めての独立はわずか半年余りで幕を閉じる。
カネのためとはいえ、親元に戻って、うまくやっていけるか一抹、いや大鍋一杯くらいの不安があったのだが、その不安は案の定的中することになる。