関西遠征【4】(1990/08/31~09/01)
この後は南海線で大阪へ戻るつもりだった。南海線も比較的手薄な路線だが、特に泉北高速鉄道の写真は撮りに行きたい。
南海線は和歌山市駅から発着しているので、そちら方向に向けて歩く。駅に到着したら特急サザンがやってくる時間が近かったので、とりあえず座席指定券を入手。
それからホームに上がってしばし撮影タイム。
行先が白飛びしてしまっているが、加太線の7100系。
それから和歌山港線の1521系も停まっていた。思い切り逆光である。反対側で撮影すればいいのに。
そしてサザンが入線してきたのでそれに乗って堺駅へ。堺駅で乗ってきたサザン、10000系を撮影。
で、この先どういう経路をたどったか正直あまり記憶にない。
次に写っている写真は新今宮駅での写真だったので、次に来た急行電車かなんかに乗ったのだろう。
ホームで待っていたら21000系ズームカーが入線してきた。お、と思って慌てて撮影したせいか、何かが映り込んでしまった。ほんと、肝心な時に失敗する癖はどうにかならないものか。。。
いいわけすると、ホーム中ほどにいるときに入線してきたので、慌てて走って先頭車両側に移動してきて、カメラを構えているうちに扉が閉まり、走り出したので慌ててシャッターを切ったせいだ。
それから中百舌鳥駅に移動。関東の人にはなじみのない駅だがこの4文字で「なかもず」と読む。中はともかく、百舌鳥と書いて「もず」だ。音の数より漢字の数の方が多い珍しい駅名だ。
ここに件の泉北高速鉄道が乗り入れている。暫く待っていたら車両が入線してきた。
泉北高速鉄道といえば泉北ニュータウンへ向かう路線である。数年前にその経営権を巡ってひと悶着あった会社として知られているが、関東でいうところの北総開発鉄道、および住宅都市整備公団(現在は北総鉄道と千葉ニュータウン鉄道)と性格が似ている路線である。
千葉の方は開業当時の近未来を精いっぱい表現したようなデザインの車両が走っていたが、泉北の方は南海の車両に仕様を合わせた割と手堅くまとめられた感じの車両だった。
そのあと地下鉄で梅田方向に向かった。近所の鉄道各社で件のプリペイドカードの現金化を行って手持ち資金を増やす。その頃には日もすっかり暮れてしまった。時間は20時前後だったと思うが、そろそろ今日の宿泊先を決めなければならない。
梅田駅の改札で、近隣にビジネスホテルが無いか聞いてみた。いや、今ならわかる。聞く先が違うだろうと。でもこの時の自分は駅で聞けば教えてくれるものと思っていたので迷わず聞いた。
駅員は多少戸惑っていたような気もしなくもないが、親切に近隣のビジネスホテルを2、3軒教えてくれた。その中でどれを選んだのかは忘れてしまったが、近隣のホテルで一夜を明かすことになった。
1990/09/01
今日は早くも関西遠征最終日である。今回は父親の都内の拠点まで戻ることがミッションとなる。最終目的地が都内ならその分終電ぎりぎりまで散策できるのでこちらも願ったりだ。
名古屋のあたりまで在来線で進んで沿線の撮影などをしつつ、途中どこかで新幹線に乗って東京に戻るというコースをたどりたい。
まずは新大阪駅に向かった。
新大阪駅では、丁度ゆぅトピア和倉のキロ65がやってきた。形式名が「キ」から始まっているとおりディーゼルカーだが、特急雷鳥の489系電車の後ろに連結されている。電車とディーゼルカーの協調運転はこれが最初で最後だったらしい。
それから京都駅へ移動。京都駅では市営地下鉄の車両を撮影した。大阪の地下鉄と比べると洗練された感じがするのは、京都という街のイメージに影響されているからだろうか。
近鉄から直通してくる3200系も市営地下鉄直通専用形式で、他の近鉄線を走る車両よりスマートな印象だ。
それからJR京都駅に戻り山陰線ホームに行ってみた。丁度急行丹後が停まっていたので撮影。微妙に指が映り込んでしまった気がする。
車両はキハ58で2両目にキロ28も連結されている。当時はキハ58はどこでも目にすることができた車両だったので、あまりテンションは上がらなかったのだが、急行列車がなくなってしまったこんにちでは、もっとこういう車両も愛でておけばよかったなと思う。
そのあと米原駅へと移動。米原には北陸線の419系が停まっていた。なかなか異形な車両である。おでこが広すぎるのは元が583系という寝台電車を改造したからだ。
583系はついこないだ一関に行ったときに乗ったあの電車である。3段寝台を納めるため天井は車両限界まで張り上げられている。それを切断して運転席を付けたからこんなことになっている。
しかし寝台電車が見るも無残な姿に改造されている様は痛々しい。
ちなみに、ホームの柱に立てかけてある紙袋が交通科学館で買い物をした時にもらった紙袋だ。ご覧のとおりパンパンである。この時は肩下げバッグで行ったので大柄なものをしまう場所がなく、仕方なく紙袋のまま持ち歩いていたのだが、とにかく重くて持ち運びに辟易としたことを憶えている。
ちなみに419系、車内はこんな感じである。3段目の寝台を隠すカバーがそのままで、その先に荷棚が設置されている。そのせいか車内は何となくうす暗い印象だ。
さて、米原といえば近江鉄道である。ここで下車したのは近江鉄道の撮影のためでもあった。
ホームに行ってみると、停まっていたのは500系という車両だった。近江鉄道には西武鉄道の資本が多く入っていて、その影響もあるのか近年ではもっぱら西武鉄道の中古車が走っているが、当時は自社製の車両も走っていた。この車両も自社製車両である。
近江鉄道は不思議な会社で、小さな中小私鉄にすぎないのに自社の工場で車両の大改造まで行ってしまう。新造するよりは安く済むから、といえばそのとおりだが、簡単に切った貼ったができない世界である。かなりのノウハウが必要になるはずなのにそれが可能なエンジニアを抱えているというところが凄いと思う。
まぁ、グループ親会社の西武鉄道も少し前まで車両は自社で作っていたので、技術者の融通なんかもあったのかもしれない。
JRのホームに戻ると、今度はキハ58とキハ40の北陸線普通列車が停まっていた。
京都駅では山陰線の急行列車として使用されていたキハ58だが、当時急行列車がどんどん削減していった時期で、そのまま格下げされて普通列車に充当されることも多かった。