岩手へ【6】(2006/03/18)
道の駅かわさき:
夕方になったのでプチ一関観光はぼちぼちお開き。戻る道すがら道の駅かわさきで小休止。物産館に様々な農産物や土産物が売られていた。出発前に一関の名物を調べていたのだが、著名な南部せんべいや餅の他にみそパンとかりんとうが有名であると書かれていた。そうだったかなぁ、と言う気もするが幼かったので知らなかっただけだろう。
かりんとうと言ってもよく売られているような棒状の物ではなく、丸くて菅笠のような形になったものだ。折角名物だと言っているのだから売られていたら買おうと店内を見て回ったところ両方とも発見。ただ、かりんとうは現物を見たカミさんの食指が伸びず見送りとなり、みそパンのみを購入した。
それを横で見ていた伯母さんから、そんなもんお土産にして持ってくもんでもねぇっぺちゃ。と呆れられた。確かに名称から想像がつくとおりどちらも昔は地元の子どもたちの普段のおやつに出すような何気ない食べ物だったのだろう。親の世代からするとそんな駄菓子のような物をなんで有難がって買っているのか不思議に見えたのかもしれない。言いたくなる気持ちは分かるがそのご当地でしか買えないという所が良いのだ。
ちなみにこのパンは蒸しパンのようなものである。帰宅後に食べてみたが生地にみそが練り込まれていて、味噌の風味を遠くで感じる蒸しケーキのような感じだった。味のベースが甘い蒸しパンなのでしっかり子供のおやつしていた。日々何気なく食べるのにピッタリの飽きの来ない味だった。
帰り道、旧川崎村の中心地を通りかかった時に、運転をしている伯父さんが突如ここが川崎村の六本木だ。と我々に言い放った。
その場所は村のメインストリート。区画整理が為されたばかりらしく広くて真っすぐの道路の両側にロードサイド店がぽつぽつ立ち並ぶ小奇麗な街並みではあるが、誰がどう見ても六本木要素は皆無である。東京から来ている人を前にしてよく言い切ったなと妙な感心を覚えたのだが、もちろんこれは普段から割とくだらないダジャレを連発する伯父さんによる皮肉を込めた一発である。
そういうキャラクターが成立しているので、車に同乗している誰もが鼻で笑って軽くあしらった。もちろん自分も半笑いである。
そしたら急に車を路肩に寄せて停まり、じゃあとはお前がウチまで運転してってけれ、と突如ドライバの交代を要求された。あれ、なんか対応間違ったかな?
運転は別にいいんだけど、道は知らないし車には先達が4人も乗車しているので万が一があったら大変だしで久々にすごく緊張した。
一関の庭:
どうにか無事に家までたどり着き、女衆は腰を落ち着ける間もなく夕食の準備を始めた。
カミさんはお客さんということもあって手伝いを求められることはなく、リビングに集まった男衆の中に取り残された。だがカミさんはそういう場面でじっとしているのが苦手な性分なので、何か手伝いがしたいのだけど嫌がられるかな?と聞いてきた。
確かに一見さんがいきなり輪に加わることを嫌がる家もあるかもしれないが、岩手のみんなは昔から助け合いで暮らしてきているので輪に加わりたいと言ってくれることはむしろ嬉しいんじゃないかな?と言うと、意を決して女衆の中に入って手伝いを申し出た。
案の定、じゃああれやってくれる?とか指示をされていたので、無事輪に加わることが出来たようだ。
そしてまぁ昔の家なのでこうした場面で男衆の出番はない。じいちゃんと伯父さんは応接間でくつろいで語らっているが、内輪な話に口を挟むのに気が引けたので、ちょっと外の空気を吸いに庭を見に行ってみることにした。
じいちゃんの家は元々傾斜地だったところを造成して建てた家なので庭の辺りに傾斜が残っている。久しぶりに目にしたその庭の様子は、全体的なディティールは見覚えのあるものなのだが、なんか妙に小ぢんまりとして見えた。小さい頃はこの庭を弟と2人で駆けずり回っていた筈なのだが。。。
今見えているその庭はなんなら15歩も歩けば反対側にタッチできるくらいの大きさしかない。視線を変えたら見え方が変わるかなと思って、物は試しにしゃがんでみたら、そこに見覚えのある広々とした庭がよみがえった。そういうことだったのね。
畑の目の前に見える線路は大船渡線だ。写真撮り放題のベストポジションであるが当時は鉄道に目覚める前だったし、親族の誰も鉄道好きがいなかったので当時を撮影したものはない。おぼろげな記憶をたどるとこの線路には当時ディーゼルカーや機関車に引かれた旧型客車などが行き来していたような気がするが、今は1種類しか走っていないので撮影のし甲斐がない。その当時に写真を撮っていたら宝物になっていただろうにままならぬものである。
ノスタルジーに浸っていたら夕食が出来上がったと声がかかったので部屋へ戻った。
みんなして例の応接間に集まって料理を囲って団らんの時間を過ごす。伯母さんが家で飼っているチワワを連れてきているのだが、ばあちゃんがテーブルの上の食べ物をちょいちょい食わせるのでずっとばあちゃんのそばを離れない。ばあちゃんも昔、雑種の犬を飼っていたことがあり食事は常に残飯を与えていたので恐らくその延長で考えているのだろう。だがチワワは食べ物に繊細らしく、人間の食べ物を食べさせると体を壊すらしい。
なので伯母さんがばあちゃんの犯行を目撃すると、すかさず食べさせないで!と声を張り上げる。ばあちゃんはいっとき分かったような顔をして大人しくするのだが、暫くして伯母さんの視線が離れた隙にまた食べ物をあげてしまう。ばあちゃんとはそういうものだw
それで伯母さんが何度も口酸っぱくたしなめると今度はせんべいを食べ始めた。かじる時にわざとだらしなく食べて破片を下にボロボロとこぼす。するとチワワがそれを食べにすぐにやって来る。だが犬がせんべいをかじる時にカリカリと言う音を立てるから伯母さんがすぐに気づいてまたばあちゃんを嗜める。イタチごっこである。。。
そんなひょうきんなばあちゃんの脇で、じいちゃんが日本酒をチビチビ口に運びながらその様子を見守っている。昔もこんなだったなぁ。
一関の夜:
それから日もどっぷりと暮れた頃、親戚や近所の人たちが入れ代わり立ち代わり家にやって来た。これも昔からだ。いつも誰かしら家に来て賑やかだった。恐らく伯母さんが自分が嫁を連れて久しぶりに家に来るから顔見に来なさい的なことを事前に連絡してくれたのだと思う。
彼らはわざわざ訪ねて来てくれているのだから、恐らく自分が子供の頃に面識があった人たちらしい。やって来た人たちはみな口を揃えて、あらまぁおおきくなって~!とか、お嫁さん可愛らしいね~!とかそんな感想を述べつつ雑談をして15分くらいしたら帰っていく。
だが、残念ながら幼いころの記憶過ぎてほとんどの人は記憶になかった。二十数年前に1度か2度会った程度の人なので仕方がない気もするが、流石に顔も忘れたなんて口にしたらがっかりすると思ったので、久しぶりの再会のような顔をしてごまかしたが、ちょっと疲れてしまった。
彼らから語られる思い出話に触発されたか、訪問が一巡してひと段落した頃に茶箪笥の中からアルバムを何冊か取り出してみんなで見ることになった。そこには自分が幼い頃の写真が何枚も納まっていた。なんなら弟や従弟なんかよりも自分の映っている写真の枚数の方が多く残っている。お袋の話していたとおり自分のことをちゃんと家族の一員として見てくれていたのだな、とジーンとしてしまった。
それらの写真は当時の活気に満ち溢れた毎日が沢山切り取られていた。夏休みに一関に行くと大抵3週間くらい滞在するのだが、毎日のように庭取りのトウモロコシやスイカが出された。ばあちゃんが食べ切れないくらい沢山出してくるので、ちょっと遊んで沢山食べて、またちょっと遊んでみたいな毎日だった。トウモロコシの粒の外し方は今でもプロ級であるw
自分は肌が弱かったので昔はシッカロールが欠かせなかった。服を着ると汗をかくからと家にいる時は全裸に金太郎の前掛けだけで遊んでいた。シッカロールで真っ白になった体に金太郎の前掛け一丁とかどこのバカ殿かみたいな写真はみんなを大いに笑わせた。
伯母さんは当時近所に住んでいて、時々お使いを頼まれることがあった。歩いて10分くらいの距離なのだが雑木林を抜けた先にあったのでちょっとした探検気分が味わえた。ある時伯母さんの家まで卵を1パック持って行くお使いを頼まれた。出発前にばあちゃんにイタズラされて自分の頭にちょんまげを結いつけられた。その意味が分からぬまま意気揚々と出発。
卵は割れやすいのだから気を付けて持って行くのだぞ、と口酸っぱく念押しされて家を出たはずなのに、伯母さんの家に着いた時には卵は全滅していた。ちょんまげ頭の子供が全て割れた卵を持って来たのを見て、叱るに叱れなかったと呆れた口調で笑われた。
ばあちゃんは週末になると朝9時くらいにどこかへ出かけていた。出かける前にどこに行くの?と聞いても、よーたす(用足し)と言うだけでどこに行くか教えてくれなかった。それで家で過ごしていると大抵昼前くらいに紙袋を抱えて帰って来る。その紙袋にはお菓子が入っていてそれを貰うのが楽しみだった。ばあちゃんの言うよーたすとはパチンコに出かけることだった。
じいちゃんは大工をしていたのだが庭の片隅でよく材料の準備をしていた。いつも無口でやってるものだから見てて楽しいものではなかったが、墨壺で線を引く動作が面白くてじいちゃんのいない隙に紐をペシペシして遊んでいたら、戻ってきたじいちゃんに窘められた。
まぁ、かようにおっちょこちょいなやんちゃ坊主だが、自分の中の幼いころの自身のイメージは引っ込み思案で泣き虫だった。家には自分が子供の頃の写真がほとんど残っていないのでそんな風に思い込んでいたのだが、岩手の写真を見て色々思い出してそうでもなかったんだな、と認識を改めることになった。
写真を一通り見て思い出の語らいもひと段落すると、伯母さんからアンタが岩手に来なくなってから、今も元気にしているだろうかとか、たまには遊びに来ないかなとか、しょっちゅう話題になっていたのだよと打ち明けられた。結婚してもう一人前になったのだからこれからはたまに顔を出しにいらっしゃいと言って貰えた。ありがたいことだ。
夜も更けてきたので風呂に入って就寝となった。寝室として通された部屋の天井に自分の記憶にない落書きがなされていた。以前弟や従弟はこの家で暮らしていたことがある。多感な年ごろだったと聞いているのでその時に衝動が発露してしまった痕跡だろう。
金沢の時と違って今回は沢山の人をいっぺんに紹介したのでカミさんは気疲れしたと思う。布団に入ってから大丈夫だった?と声をかけたら、 みんな人柄が穏やかな人たちだったから思ったよりは疲れていないとのことだった。まずはひと安心。
目を閉じて暫くすると庭の前の線路を大船渡線の列車がディーゼルのエンジン音を響かせながら通過していった。恐らく終列車だろう。この後は静かに夜が過ぎていくはずだ。
自分が小さい頃は大船渡線は24時間体制で貨物輸送をしていた。なので日夜問わずこの線路を沢山の貨車を引いたディーゼル機関車が行き来していた。テレビは夜8時までと決まっていたので、下の居間でテレビを見ていると8時でテレビが消される。それから寝るまでのちょっとした間はゼンマイ仕掛けの壁掛け時計の針の音だけが聞こえる静かな部屋となった。居間以外の部屋は電気が消されているので子供心に何か不気味だった。
当時は夏になると怪談話とか心霊現象だとかそう言う内容の番組が頻繁に放送されていた。稲川淳二なんかが蒼白の顔でそうした怪談を話す番組を見た日の晩はもう寝る時が怖くてしょうがない。だが無情にも就寝時間がやってくる。親に促され仕方なしに2階の部屋に上がる。田舎なので電気を消すと目を開けているのか閉じているのかすらも分からないほどの漆黒に包まれる。怖い番組のせいで目を閉じると怖い絵が瞼の裏に浮かびあがる。だが目を開けても一緒なので逃げ場がない。もうどうしてよいのか分からず隣で一緒に布団に入った弟を唯一の戦友のような気分で心のよりどころにして、眠りに落ちるまで闇と戦っていた。
そうした時に不意に大きな音を立てて例の貨物列車が通過していくのだ。あれは嫌な瞬間だったな。機関車が近づいて来て離れて行くエンジンの音も嫌だったし、カーテン越しにヘッドライトの明かりが部屋の中にまで届いて、部屋の片隅を照らしながら通過していくのも嫌だった。
部屋が照らし出された瞬間だけは部屋の中の様子が見える。だがその明るい所に何かいたら嫌だなと思うと目が開けられない。もう堪らない時間だった。