小笠原上陸【37】(2008/09/16)
小港海岸:
下山は圧倒的に早く10分ちょっとで降りてしまった。借りた杖を元の場所に返却して小港海岸を見に行ってみた。小港海岸は一昨日のナイトツアーでも訪れた場所だが、あのときは真っ暗で夜光虫とカニの印象しかない。明るい時に一度見ておこうと思った。
カメラのアングルがどうにもイケてないが小港海岸はこんな場所だ。扇浦と異なり綺麗な白砂のビーチが奥の方まで続いている。周囲の石灰岩質の地層からの砂の供給が潤沢であるためだろう。水質がきれいなせいか足についても軽く払うだけで落ちてしまうほどさらさらとした砂だった。
写真の左上ギリギリの辺りがさっき登ってきた中山峠である。よく見ると峠にあった小さな東屋も見える。ここは島のほぼ南西の端にあたり、大村の集落からも離れているせいかひと気は少なかった。浜辺にいる人も思い思いに海水浴を楽しんだり、浜辺の砂地に腰を降ろして読書にふけったりと、全体的にのんびりとした空気が流れていた。
扇浦やコペペ海岸の方が行きやすいのでみんな手っ取り早くその辺で遊ぶのだろう。閑散としていると言っても何もない訳ではなく、東屋やトイレなどの施設はしっかり整っている。
八ツ瀬川の河口部。流れ込んだ川の水は砂に吸収された後、海中へと流れ出ているようだ。
それよりも背後に見える岩の真ん中あたり、洞穴のようになったところの周囲を見て欲しい。何とも奇妙な形の紋様が描かれている。
拡大するとこんな形。松の木の樹皮のようなというか、丸石を積み上げた石垣のような、というかそんな形のヒビの入り方をしている。
これは枕状溶岩と呼ばれている。かつての火山活動によって噴出した溶岩が海水に触れて固まったもので、通常は海中で見られるものだが、ここにあるのはその後海面上に露出したため地上で観察することが可能である。この枕状溶岩は父島の周辺でしか見られない特殊なものとなっていることから無人岩(むにんいわ:ボニナイト)という名前が付いている。無人って岩石にそもそも人は入っていないだろう、と思わずツッコみたくなる名前だがちゃんと理由がある。
海外の人が小笠原のことをBonin Island(ボニンアイランド)と呼びならわしていることは小笠原について少し調べたことのある人ならご存じだと思う。このボニンというのは無人という言葉が訛ったものだと言われている。つまり無人島。
小笠原に日本人が定住し始めたのが1800年代であるが、島があることはそれ以前から知られていた。だだし特に誰のものでもなかったので島に名前がなく、地図にはこの辺の島のことを無人島(ぶにんとう)と表記していたそうだ。
で、それを見た欧米人が「あそこの島は【ブニン】という名前なのか!」と誤解したことがきっかけで、以来欧米人の間では小笠原のことをBunin Island(ブニンアイランド)と呼ぶようになり、それが訛ってボニンと呼ばれるようになったというわけだ。「プニン」とか「ボイン」に訛らなくてよかったねw
そのことから小笠原に特有・固有なものが見つかると、命名の際に「ムニン(ムニ)」や「ボニン(ボニ)」を冠することが多い。日本人が命名する場合でもムニン(ボニン)を冠した方が世界的な名前のとおりが良いようで割と無批判にこのテンプレが受け入れられている。
だが言うまでもなく父島、母島は有人島である。有人の島を指して無人と称するのはどうなんだろうとも思うが、まぁ今更なのだろう。
小笠原のルーツ:
小港海岸をしばし見学した後、大村への道すがらにある見どころを訪ねながら戻ることにした。
扇浦の集落に入るとこんな看板が掲げられている。4つもあって見どころ満載。だがよく見るとそのうち3つは碑である。
開拓小笠原島之碑と無人島発見の碑はここで島が発見されて島の開拓が始まったのですよ、という記念碑だということが分かる。だが「はり乃記」は何だろう?小笠原にいたはり乃という名前の若女将が切り盛りする旅館の人情あふれる細腕繁盛記、みたいな明治頃の作品にまつわるものだろうか。しかも「新」とついていると言うことは旧がある?
いや父島を舞台にした小説なんて聞いたことがない。よく見るとその英訳は「Ogasawarasima Colonization Monument」となっている。なんだこれは。
興味を覚えたのでちょっと見に行ってみることに。
道から入る入口に鳥居があり、そこから登り道の参道を進むとすぐに小笠原神社があった。拝殿はコンクリートで作られていて本土の神社とは雰囲気が異なる。案外新しい神社なのだろうか。
まぁ歴史が浅く伝統らしい伝統がまだ充分に育くまれていない島なので、新しい物を受け入れやすい風潮があるのかもしれない。
拝殿の後ろに見えている碑が無人島発見の碑である。
更に拝殿の右側に目を向けると銃眼が口を開けていた。参拝に訪れた人を狙撃するためじゃないよな、まさか。
そして隣にはその銃眼のあるトーチカへ出入りするための穴が開いていた。ご丁寧に「トーチカ出入口」の看板も立っている。
穴の大きさは小さく、しゃがまないと進入できないくらいの大きさしかない。カミさんが銃眼の中から顔を出す自分を見たそうな顔をしていたが、真っ暗だし狭そうだしでとても入ってみようと言う気にはならなかった。
参道を戻る途中、道が分岐していたのでそちらにも進んでみたら、藪に囲まれた一角に開拓小笠原島之碑と、
小笠原島新はり乃記の碑が建っていた。その脇にあった解説文を読んでみて意味が分かった。新・はり乃さんではなく「新治の」だ。
新治は開墾を意味する言葉である。つまり意味合いとしては上の開拓小笠原島之碑と同じ意味合いの碑ということになる。だから英訳が全く同じだったのかと1人合点。解説によれば新はり乃記が日本による入植を宣言するために建てられたもので、開拓小笠原島之碑が明治時代に島を開拓していく決意を表明した物であるそうだ。
どちらの碑も夥しい文字が彫り込まれていたが、文字が消えかかっていて判読するのに時間がかかりそうだったので読まずじまいだった。
バイクを停めた都道に出る時に道向かいに面している扇浦ビーチの方を眺めたら、カヤックが点々と浮かんでいた。恐らく外洋に出る前の訓練をしているのだろう。揺れに強かったらこういうのにチャレンジしてみたいんだけどなぁ。
まぁ自分は波風立たないマングローブ林の中でチャプチャプ漕いでいるくらいの方がお似合いなのだろう。