九州めぐりと寝台特急はやぶさ乗り納めツアー【7】(2008/11/23)

天草ドライブ:


2008/11/23

昨晩は道の駅宇土マリーナまで辿り着いた所で力尽きてしまった。ここは海岸沿いの道の駅であるせいか夜の冷え込みがそれほどでもなく、朝まで熟睡できた。
起床は8時だったが店がまだ開いていなかった。8時に店が開いていない道の駅はちょっと珍しい気がする。店が見られないなら長居する理由もないということでとりあえず出発。

 

今日はまず天草の島めぐりをしたいと思う。島内にはキリスト教の信者たちによって建てられた教会などが点在しているらしく、カミさんが見に行きたいと言っているのでどこか立ち寄ってみようと考えている。

で、その後フェリーで長崎の島原半島へと渡り、普賢岳などを見物しながら長崎市街へ移動。そこで市内を観光し、更に時間があれば佐世保や佐賀の呼子なども経由しつつ福岡へ抜けるルートを想定していた・・・のだが、現時点で行動開始予定の時間から1時間ほど遅れている。そのうえ目的地の手前で力尽きてしまったのでその分も遅延。長崎市街やその先の観光に必要な時間を考慮すると教会を見て回る時間がない。

そこで、教会を見て代わりにどこかをスキップするか、逆に教会をスキップして他の観光地を回るかカミさんと協議したところ、教会見学はまたの機会でよいということだったので結局天草観光は見送りとなった。

 

というわけでまずは宇土半島を進み、その先端部にある天門橋を渡って大矢野島へ上陸。一番本土寄りの大矢野島から始まりそこから南方向に点在する島々を総称して天草諸島と呼んでいる。天草諸島の島々のうち主要な島となる大矢野島、天草上島、天草下島とその経路上にある永浦島、池島、前島といった小島は天草パールラインという道路で結ばれており車で渡ることができる。

またそれらの島々を結ぶ天門橋、大矢野橋、中の橋、前島橋、松浦橋の5つの橋は天草五橋とも称されている。天草五橋は熊本県議会議員だった森慈秀(もり じしゅう)という人物による熱心な陳情が実を結んで1966年に架橋されたもので、晴れて本土と地続きになった。当時離島へ架橋するという事業はかなり珍しいことで非常に先進的なものであったという。
※上記5橋には天草上島と下島の間を結ぶ天草瀬戸大橋が含まれていないが、これは後年になって架橋されたためである。現在は本土から天草下島まで車で往来する事が可能。

 

その森氏という人物はとにかく清貧に徹した人であったという。自分が島巡りの世界に足を踏み入れるきっかけとなった、本木修次著の「離島めぐり15万キロⅡ」という本がある。この本は自分にとってバイブルにも等しい名著なのだが、その中にこの天草五橋架橋時の森慈秀にまつわるエピソードが記されている。少し長いが、こんにち議員さんと呼ばれるセンセイ方には類する人がいないのではないかと思うほど、熱意と情熱に満ちた方であることが分かる部分を引用にてご紹介する。

昭和九年(一九三四)熊本県議会議長の森慈秀は" 天草が離島の後進性から脱却するにはこれしかない"と、天草五橋計画を提案した。県知事、全議員らは一笑に付して、 まったく問題にされなかった。

(中略)

昭和三三年(一九五八)森氏は天草架橋早期実現のための最後のご奉公と、大矢野村長になった。三期十二年間を無報酬で務めたという。それは税金を納めた後は町に貯金し、その累積利子で"無税のまち"をつくろうということであったらしい。とにかく発想がシャープでスケールが大きい。しかも私的なことは節して、公のために大力をつくした人のようだ。

昭和三〇年の大矢野は町会議員三〇名、議員報酬は全国町議会最低で一万円。森町政のもと議員さんも了承。自ら無報酬で最大の力をつくす町長の崇高な姿勢があたりに漲っていた。

(中略)

「熊本の知事さんでん東京の大臣さんでん視察にこらしても、自分の家によんでアンパン一つ牛乳一本の渡しぎりです。酒の一ぱいでん出したことはなかっです」。これは当時の町議さんの話だという。氏は町民の税金を徹底的に大事にし、私にはドけちだった。酒は大嫌いで、どの会合にも出なかったと。

(中略)

五橋実現のため、どえらい戦法も独得なものがあった。全島民に一円カンパを訴えた。漁師も百姓も、おかみさんもおばあさんも、そして子どもも皆一円札を出さした。これを山に積んで県知事の机に積み上げた。"島民の心ばい"架橋の運動資金に使ってくれと。十円札の時もやった。

(中略)

ついに当時で国の二二億の予算通過。県の道路予算の闘いもねばり抜いて勝ち、夢の天草五橋、今で言う天草パールラインが実現していったのである。しかもその橋のふところに、阿蘇山の伏流水を受けて、天草に水を送るパイプがしのばせてあるとは、さすが森氏。(後略)

島というのは道路交通が容易に到達できない場所であり、多くの島でモータリゼーションの進展に歩調を合わせるように衰退が進み過疎化に直面していた。
この問題への解決策としていち早く架橋することを提案したことは慧眼であったというより他ない。だが当時島へ橋を架けるというのは技術的なハードルが相当に高い工事であり、当初は議会でも取り合って貰えなかったという。それでも確たる信念に基づき、自らを清貧に律してまで粘り強く働きかけた結果実際に架橋に至ったのだからその信念の強さは見習いたいものである。

ここ数十年は島のみならず本土でも僻地の過疎化が深刻になっておりその打開策として、村(町)おこしや島おこしが活発になっている。そうしたことを今から90年も前に思いついていたというのだから流石であるとしか言いようがない。

 

天草上島、天草下島:


さて、そんな天草五橋を通って天草上島までやって来た。ちなみに大矢野島が島旅53番目の島であり、そこから永浦島前島とカウントアップして天草上島が56島目となった。

天草上島に上陸後、当初寝床として利用する予定だった道の駅有明に休憩を兼ねて立寄ってみた。

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微妙な空模様が続いているが雲は薄く雨の心配はなさそう。ただどんよりしていてあまり気分が乗らない。

売店で昼食とミカンを購入した。ミカンは旅の間のビタミンC補給にもってこいなのだが、ハズレを引いたのかパサパサしていてあまりうまくなかった。

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道の駅は海岸沿いにあり、道路越しに島原湾とその対岸にある島原半島のシルエットが見えた。天気が良ければ迫り来るような普賢岳の偉容が望めたのだと思うがこの天気ではどうにも。

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休憩後、更に車を走らせ本渡地区までやって来た。ここから天草下島までは天草瀬戸大橋という橋で渡ることができる。橋は天草瀬戸を通過する船舶を考慮して高い所を通過するため、ループ橋によるアプローチとなっていた。

地図で見ると両島の間の海峡は何で地続きにならなかったのだろうと思うほどの幅しかなく、まるで川のようだ。なので橋もあっさりと一跨ぎして下島へ渡る。その実感のないまま57島目達成。下島側の市街地が本土地区の中心街になっていて天草随一の大きく開けた市街地が広がっている。

 

この天草下島は6分の1周ほど進んだ所にある鬼池港までの走行。その道すがら妙な渋滞に遭遇した。
渋滞といってもストップアンドゴーと言う感じではなく、ノロノロとした速度で車列が流れている。地元の農耕車が道を塞いでいるのだろうか。

船の時間まであまり時間がないので、ちょっとソワソワした気分になりつつ進んでいくと、

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ランナーの姿が見えてきた。あ、マラソンか。道すがらの立て看板によると天草マラソン大会が絶賛開催中だった。といっても参加者が少ないのか既にばらけたのか、誘導や交通規制などが一切行われていない。沿道に応援する人の姿もなくなんだか練習風景でも見ているかのようだった。

交通整理をしてくれないので彼らを追い抜くのに神経を使う。追い抜く際にある程度反対車線の方まではみ出さないとならないのだが、ランナーが団子状態になっているとその距離も長くなる。だが対向車線側もそこそこ交通量が多く追い抜けるかどうかの見極めが難しい。その間ランナーの走る速度に合わせて後方を追いかけざるを得ないのでプチ渋滞になっていたらしい。

 

自分も暫くランナーの後方を進まざるを得ない状況が続いた。対向車が途切れた所でようやく一気に追い越したのだが、もはや船の時間はギリギリとなっていた、というか多分この分だと間に合わない。次の便は2時間後なのでだいぶ時間をロスすることになるが、これも旅のハプニングとして受け入れなければならない。

そうして鬼池港に付いた時には既に出港時間となっていた。船の方を見ると車両甲板の蓋を今まさに閉じようとしているところだった。やはり間に合わなかったか、、、とがっかりしたとの時、係員が自分の車のところまでやってきて乗るなら待ってるから手続きしてきてください、と声をかけてくれた。

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え、マジで?それはありがたい。ということで大急ぎで窓口に向かって手続きをした。窓口のおばちゃんは慣れた手さばきで手際よく手続きを済ませてくれた。それを受け取って車に戻りどうにか無事乗船できた。

Posted by gen_charly