東京水辺ライン【5】(2009/05/30)
利根川の東遷と荒川の西遷:
さて、水上バスの旅レポートからはちょっと離れて、これから遡ろうとしている荒川について少し触れてみたい。
東京23区東部には隅田川、荒川、中川、江戸川といった大きな河川が集中している。だがこれらの川は昔から同じ場所を流れていた訳ではない。江戸時代に江戸が首都になった直後から様々な改良(改悪)が行われたうえで現在の流路となっているのだ。
関東地方の北部を眺めると、群馬県に源を発する利根川、渡良瀬川、および栃木県に源を発する鬼怒川という3つの代表的な河川がある。これらは最終的に利根川に合流して、関東の最東端となる銚子から太平洋へと流出している。
だが、かつて銚子へと流れていく川は鬼怒川(常陸川)のみで、利根川は中川、渡良瀬川は江戸川(太日川)としてそれぞれ東京湾へと注ぐ河川だった。利根川は坂東太郎とも称される全国屈指の大河であり、大雨が降るたびに氾濫して流域を水浸しにした。また流域が広大であるため氾濫後の水はけが悪く、江戸時代以前は埼玉の南東部から江戸にかけて湿地帯が広がっていたという。
東京湾の最奥部に位置する江戸は物流の面でハンディキャップを抱えていた。当時の大量輸送機関はもっぱら船だったので船は江戸湾を航行して江戸に辿り着く必要があった。特に東北方面からの船運は房総半島をぐるりと回らなければならず、海況にも左右されやすいため物流が安定しないという問題があった。
江戸に幕府を開いた徳川家は、入城後にこれらの問題の改善のため河川改修に着手する。まず1594年から25年の歳月をかけ、鬼怒川と利根川・渡良瀬川が最も近接している箇所に水路を掘削して双方の川を接続した。つまり利根川・渡良瀬川の水の一部を鬼怒川に流すことにしたのだ。この河川付け替え工事を瀬替えと呼ぶ。
この瀬替えによって水害が軽減された埼玉および江戸東部の低湿地帯で新田開発が盛んになり、また常陸川流域では流量の増加によって大型の船が進入可能となった。銚子から常陸川(利根川)および太日川(江戸川)を経由することで気象に左右されにくい物流ルートが開拓されたのだ(ただし、常陸川流域において水害が多発するようになるというデメリットが生じている)。
河川改修はこれだけでは終わらなかった。続く1624年から今度は荒川の瀬替えに着手する。荒川はかつての利根川に合流して江戸湾にそそぐ河川だったが、その名のとおり荒ぶる川で氾濫の度に頻繁に流路が変わるような川だった。それが利根川へと合流していたのだから一度氾濫したらその被害は甚大だった。
そこで、それまで合流していた利根川(中川)から埼玉県の中央部を東流する入間川(いるまがわ)への付け替えを行った。熊谷市久下の辺りで最も近接する和田吉野川という川に瀬替えをすることで、下流域で合流する入間川へと流れるようになった。
だが、入間川の下流域はかの有名な隅田川である、つまり荒川の水は江戸城のすぐ脇で江戸湾に注ぐことになった。かつての水害常襲地帯を改良するために利根川をわざわざ東に流れるように変更したのに、荒川はむしろ江戸に近づくようになってしまった。
この瀬替え事業は、洪水対策というよりは埼玉方面からの水運の利便性向上が主な目的だったらしく、期待どおり埼玉地区との水運事情は大きく向上したが、その一方で氾濫は抑えきることが出来ず、瀬替えが行われた後も頻繁に洪水に見舞われたという。なんとなくそれって予測できなかったんですか?と思わなくもないが、当時の為政者は水利を優先させたということか。
江戸を氾濫から守るため日本堤などの堤防を設けて、氾濫時に江戸の川向いである東側にあふれさせるような対策が行われたが、それでは埼玉県南東部や東京の墨東地域で農業を営み暮らしている人たちにとってはたまったものではない。
だが幕末を経て明治時代に突入するとそうしたエリアに工場などが建設されるようになる。農民の陳情はある程度黙殺できても工場からの陳情は無視できなかった、ということなのかどうかは知らないが、さらなる治水対策が講じられることになった。埼玉と東京の県境から少し都内に入った所にある岩淵という所から葛西まで放水路を建設することになったのだ。この放水路は明治維新以降の設計だけあって、その流路は緩やかで越流や破堤を起こしやすい急なカーブのない極めて人工的なルートで東京湾へと繋がった。もっとも元々田畑や人家のあった所が大規模に川の流路となったので、立ち退きに対する軋轢もかなりのものがあったそうだ。
こうしたいきさつがあって、やたらと広い川幅を持つ荒川放水路が完成した。それ以来、都内の流域では洪水が発生することはなくなり、首都発展に大きく寄与した。といっても過去何度か関東地方を直撃した台風による大雨で氾濫寸前の状態になったことはある。幸いにしてこれまでギリギリ回避されてきているが、この先も永劫に起こらないとは言い切れない。
ちなみにかつては岩淵水門より下流側を荒川放水路と称し、隅田川は正式名称が荒川、隅田川は通称となっていたが、現在ではこの放水路が荒川本流となり、隅田川は俗称から正式名称へと変更されている。
江戸東京ぶらり旅 - 荒川ロックゲート:
さて、ようやく話を元に戻す。
遡ること15分ほどで都営新宿線の線路が見えてくるが、船はその手前で速度を落とした。
堤防の向こうに門形のレンガ色の構造物が見えるが、これが荒川ロックゲートである。ロックゲートは旧中川の河口部と接続している。
中川は荒川放水路の建設に翻弄された川である。地図で見ると分かるが、葛飾区の青砥のあたりで分流した中川は、低湿地帯を流れる川に特有の大きな蛇行を伴いながら南西方向へと進む。が、その途中で荒川放水路によってその流路がぶった切られている。よく見るとそこで荒川放水路に合流している訳ではなく、荒川放水路に沿った流路を暫く下って江戸川区の西葛西の辺りで合流している。
また、荒川によって分断された下流側もまだ川として残されている。これは江戸川区平井の北側付近から江東区南砂の辺りまで蛇行しながら流下し最後は荒川に合流している。これも周囲の小河川がここに流入してくるので残さざるを得なかったのだろう。こちらが現在旧中川という名前になっている。そして今いるのはその旧中川の河口部である。
余談だが、中川もまた大河川なので荒川に全部合流させるのは得策でないと考えたのか、先ほどの青砥の分岐点からそのまままっすぐ南下して旧江戸川に合流する水路が作られている。こちらは新中川という名前になっている。江戸川もまた江戸川区篠崎の辺りから千葉県市川市方向へ放水路が掘削されたため、元の流れの方は旧江戸川という名前になっている。
まぁ、とにかくそういった具合で埼玉から東京にかけて新××とか旧××とか元××とか古xxといった名前の河川があちこちにあってややこしさに拍車をかけている。それだけ河川改修に苦心したということなのだろう。
また脱線した。
で、この水門の向こうにある旧中川だが、河川流量の差異のため荒川とは水位が異なっている。荒川は干満の影響で水位が変動するためその差は一定ではないが、1m~3mほどの水位差があるそうだ。そのままでは荒川の水が旧中川に流入してあふれてしまうのでこうしたロックゲートを設けて水位差を吸収しつつ船の航行を可能にしている。
ロックゲートは川の前後に水門が設けられている。例えば荒川から旧中川へ進入する場合、船が最初の水門をくぐったら後ろ側の水門を締め切って水を排出する。旧中川と同じ水位になったら旧中川側の水門を開けて船が旧中川へ進入する、という仕組みになっている。それはまさにパナマ運河と同じ仕組みなのである。
と、画像もなしにダラダラ書いてしまったが、こちらがその荒川ロックゲートである。
日常生活においてこうしたロックゲートを利用する機会というのはそうそうない。それだけにどんなものなのか大いに興味があった。
水位を調節する都合上、交互通行となっている。船がゲートに差し掛かった時、岸辺に設けられた電光掲示板から待機を指示されたため、暫くゲートの手前で待機する。
すると、その間に船室内から乗客がわらわらとデッキに集まってきて、いつの間にかご覧のとおりの混み具合になった。確かにこれは間近で見たいよな。
・・・と思ったら、帰宅後にネットで調べていてたまたま見つけた水門好きの人のサイト上に、丁度この日に水上バスで水門を巡るイベントを開催したという記事を見つけた。詳しくは書かれていなかったが、この人たちの一部はそのイベントに集まった人のようだ。