南東北の旅 - 16(2012/08/14)
— 陸前小泉へ —
気仙沼の市街から30分ほど南下すると、陸前小泉駅の近くに到着。
気仙沼線の線路は築堤で10m程上を通っているのですが、国道と津谷川を跨ぐ橋は無残にも流失してしまっています。
まず先に陸前小泉駅のあった場所を尋ねてみることに。
駅の残骸が残っているように見えた場所は、周辺にあった瓦礫を集めていただけの場所で、そこに駅があったことが分かるものは何も残っていませんでした。
築堤から海側を覗くと、斜面に線路が垂れ下がったままになっているのが見えます。
丁度同じ頃にここを訪ねてきた人が築堤を伝って橋が流出した先端まで歩いていくのが見えました。
原付も行って見たい気持ちにかられましたが、往復にはそれなりに時間がかかりそうだったので、とりあえずそのまま築堤を後にしました。
車に乗り込もうとしたとき、なんか違和感を感じたので良く見てみると、そこにあったのはホームでした。
どう考えてもこの位置に線路があった訳はなく、もちろん築堤上から流失したものです。
最初は気付かなかったのですが、良く見ると白線もありホームだったものと見て間違いないでしょう。
ここの築堤も地面からは5mか10mくらいの高さがあるのですが、その上にあった構造物を根こそぎ奪っていったという事実。
圧倒的な津波の威力に言葉を失ってしまいます。。。
それから車で少し戻り、津谷川沿いの親戚が旅館を経営していたという場所へ。
津波によって親戚が2名、命を失ったそうです。
川沿いの堤防の道を少し進むとすぐに道が寸断されて行き止まりだったので、脇の空き地に車を置いて、そこからは歩いていくことに。
寸断された先は水溜りになっていて進めなかったので、脇の堤防に上がってみると、車を置いた場所の後ろ側にも池のように海水が入り込んでいる場所が広がっているのが見えました。
民宿は、多分車を置いた場所か、その隣辺りにあったようです。
それから反対方向へ視線を動かすと、砂浜の先の海面に3階建ての鉄筋コンクリート造りの建物が見えます。
これは小泉の駅からも見えていたのですが、最初のうちはそれが海まで流された建物だとは気付きませんでした。
この建物は親戚の民宿の隣に建っていたものらしく、海まで50mほど流されてしまったようです。
あんな大きな建物をいとも簡単に押し流してしまったのだから、そりゃ小泉の駅も流失するわけです。。。
波に洗われるに任せたままの廃墟は何ともいえない寂しさを漂わせています。
ここにあった民宿には原付も小さい頃に何度か連れて来てもらったらしいのですが、残念ながら全く記憶にありません。
夏休みになると一族総出でビーチへ出る人のために駐車場を提供したり、民芸品を売ったり、海の家を営業したりとそれは活気があったとのことです。
— 衝 撃 ! —
自宅に戻ってからあの建物は一体どのくらい流されたのか調べてみようと思い、被災前の姿を残すGoo地図と被災後の姿を映すGoogleMapのそれぞれの航空写真で比較してみる事にしたのですが。。。
被災前(goo地図より)
被災後(GoogleMapより)
Googleの地図で写真中央右よりの最上部、砂浜の沖に見える四角い二つの構造物が、流出したと思われる建物と基礎部分なのですが、Gooの地図を見ると松の防風林のすぐ背後に建っている同じ建物は、実は全く同じ位置にあることに気が付きました。
なんと、流されてしまったのだとばかり思っていた建物は、実際には沖に流されたのではなく、地盤沈下によって陸地が後退した事で、建物が海中に没してしまった、というのが本当の所のようです。
いかにも自然な砂浜があったので気が付かなかったのですが、砂浜だと思っていたその場所も震災前は普通に畑などだった場所だったわけで、その余りの変わり様に写真を見ながら唖然とさせられました。
堤防の道は現在の海岸線になっている部分の少し先で大きく崩れ、波に洗われていました。
確かに岸壁や船着場と言う訳でもないのに、歩道が不自然に海側へ突き出している様子に、初めてこの場所に立った時から違和感を感じていたのですが、かつて海岸線が数十メートル先にあったのだとすれば納得がいきます。
従弟が線香を手向けたいと言って火をつけ始めました。
風が吹いていてなかなか着火しませんでしたが、どうにか着火したのでそれを堤防に供えて、静かに手を合わせました。
甥っ子はこの状況を当然理解できる訳もなく、堤防の少し手前でお母さんと陽気に遊んでいましたが、将来大きくなって、従弟から聞くなりこの記事を読むなり(読むかな?)してここに再び立った時、ここからどんな光景が見えるのか、それをみて彼が何を思うのか、波の音とセミの声しか聞こえない夕暮れの堤防でそんなことを考えました。
さて、ぼちぼち日も暮れるので撤収の時間。
帰りの道すがら、道の駅「かわさき」で前回買えなかったみそパンを買おうと思って立ち寄ったのですが、結局みそパンには食指が伸びず、代わりに丁度切らしていたお味噌とがんづきを買うことにしました。
それから最後に従弟の父方のお墓参りを済ませることになりました。
父方のお墓は一関の市内にあり、到着したときには丁度盆踊りの準備が済んで始まる直前のタイミングでした。
車が邪魔になりそうだったので少し慌しくお参りを済ませてようやく帰還。
到着してすぐ、従弟が車の窓ガラスの撥水加工をしてくれました。
何でも一般には市販されていないプロユースのものらしく、軽く磨いただけで油膜は切れるし、水は盛大にはじくし実に気持ちの良い仕上がりになりました。
今まで必死に油膜を研磨していたことから考えると実に安楽なもので、思わず欲しくなったので入手方法を聞いたら、1ビン分けてくれました。
それから帰りの時間まで従弟が壊してしまったデジカメの修理に挑戦したのですが、結局直せずじまい。。。
おばさんが野菜を中心にあれやこれや準備してくれていて、原付たちに持たせてくれました。
その中には味噌もあり、道の駅で買わなくても良かったなぁと思ったのですが、まぁあればあっただけ使うものなのでヨシとします。
というか、毎度すみません。
感謝してます。。。
従弟が9時過ぎに帰るということで見送り、それからテレビでオリンピックを見ていたら少し落ちていたようで、時間を見るとすでに12時近く、道が再び混み始める前に出発することにしました。
流石に夜半過ぎとあって渋滞もなく、頑張って走りきって明け方に東京に到着。
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震災後岩手を訪れたのはこれで3回目となりましたが、復興の槌音はいまだ遠く、というのが正直な感想でした。
というか、あんな状態からどうやって立ち直っていくのだろうと心配になるくらい、完膚なきまで叩きのめされてしまった沿岸部ですが、それでも一歩ずつできる事からこつこつと復興に向けて歩みを進めている姿を時折目にするとも出来ました。
今回はそれ以外にもいくつかの場所を見て回ったので、話のターゲットは相変わらずぼやけまくりでしたが、まぁそれはいつも通りということで。。。
(おわり)