— この島に人がいる時に来て見たかった —
この辺りから建物を北西から南東の方角へ見るような位置になるので、完全に逆光になってしまいました。
一応写真を手直ししてそれなりに見えるようにしていますが、見づらいのはご容赦の程。
右手前から、前述の51号棟、その背後に3号棟。
51号棟の背後から長く続く建物が16号棟で、前述の通り16~20号棟が一つの渡り廊下で繋がれた構造になっています。
島では30号棟に続いて古い現存の建物で、16~18号棟が大正7年に、19、20号棟が大正11年に建築されています。
現在では全て9階建てに揃っていますが、18~20号棟は建築当初は6階建てで、後に増築しているとのこと。
この16~20号棟は日給住宅と呼ばれ、かつて日払いの労働者が住んでいた社宅で、5棟あわせて255戸の島内第二の規模を誇るアパートです。
30号棟は六畳一間で共用廊下にかまどや流し場が設けられたスタイルですが、日給住宅ではかまどが室内に置かれるようになり、部屋も二間になって広くなりました。
ただし、窓側に位置する六畳間または八畳間と、その手前に続き間として二畳から四畳半の部屋という間取りだったため、狭い方の部屋はかなり暗かったのだろうと思います。
もっともそれぞれの建物の間は非常に近接して建てられているうえ、北東を向いているため、窓の付いている部屋であっても大して光は差し込まなかったと思われますが。
海側で全ての棟をつなぐ共用の大廊下は当初は開放廊下で当時の写真では非常に軽快な印象になっていますが、後にこれを塞いで防潮堤としての役割を持つようになりました。
16号棟の左手側に建つ同じ形の3棟(一番左は見切れてますが)が右から順に59、60、61号棟で昭和28年築とのこと。
海に対して妻面を見せて建っているのは、波を正面からかぶらないようにするためだそうで、当初日給住宅で当初考慮されていなかった防潮対策がこの59~61号棟において波をかわすという方法で対策され、更に後年に建つ31、48、51号棟などで建物そのものを防潮堤として機能させると言う風に進化しています。
なお、日給住宅の背後に建つ建物は昭和14年築の57号棟です。
いちいち解説が長くてだらけてきているかと思いますが、島の建物はまだまだあります。
一番右が前述の61号棟。
その左隣の神殿のような6本の縦管が特徴的な建物が昭和15年築の66号棟。
「啓明寮」という通称がつけられています。
縦管は便所の臭突とのこと。
更に左隣の建物が昭和25年築の67号棟。
66、67号棟は共に独身寮として使われていたそうです。
その背後にそびえたつ巨大な建物が、島で最大のマンモスアパートである65号棟。
写真の通り、コの字型に配された9階建てで、実に317戸もの戸数を持つ建物です。
建物に囲まれた空間には児童公園が整備され、子供たちの遊び場になっていたとのこと。
この建物は第二次世界大戦中に工事が進められ、終戦間際の昭和20年に北側の棟が完成しています。
極端に物資が不足した戦時中にもかかわらず、大量の材料を必要とするこのような建物の建築が続行されたことは非常に珍しいもので、当時石炭の産出が国策としていかに重要視されていたかを物語るものです。
そういった時期に建てられた為か、「報国寮」という通称が付いています。
丁度その頃、松代では岩盤に一生懸命トンネルを掘っていた時代なので、こうして対比するといかに先進的なことを成し遂げていたのかが分かります。
終戦後も増築が続けられ、東側、南側の順にそれぞれ建設され現在の形になったとのこと。
東側の棟の最上階には保育園が設けられていました。
保育園の設置に辺り、場所が無いので建物の屋上に設けたいと申請したところ、役所がなかなか認可を下ろしてくれず、担当者を現地に呼んで見てもらったらすぐに認可されたというエピソードがあります。
前述の30号棟、日給住宅と後年になるにつれ居住空間の改善が見られ、この建物ではようやく窓側に面した六畳二間の2Kと言う広々とした間取りになり、高層階では張り出し形のベランダも設けられ、非常に開放的な環境に改善されました。
更に南側の棟(新65号棟とも言われるそうです)が建つ頃には海底水道が開通したため、各戸水洗トイレ完備になりました。
65号棟は、一番最初に建築された北側の棟から、新65号棟の建築までの間に、長屋の延長から独立型の近代的アパートへと設計思想が変化していく様子を見ることができる貴重な建物といえます。
さて、ここまで見てきて、ずっと不思議に感じていたことがあります。
それは、いくら人の手が入らなくなってから40年という年月が流れ、過酷な気象条件の下に置かれた環境であるとはいえ、壊れ方が尋常でない気がしたことです。
最初のうちはそう感じた理由が分からなかったのですが、色々なサイトで紹介されている島の建物の詳細な写真と解説を見ていてその理由が分かりました。
この島の建物は、窓枠や玄関扉やベランダの柵などあらゆる建具の殆どが木で作られているという特徴があります。
原付のイメージする鉄筋コンクリートのアパートと言えば公団のあれなので、コンクリートに木という組み合わせは当初違和感を感じました。
単に古い建物だからそうなっているのだと思っていたのですが、当時アルミサッシはまだ普及しておらず、島外の建物で既に一般的だった鉄サッシを用いるとあっという間にサビてしまうので、あえて木を使い続けていたと言うことを知りました。
確かに建物の躯体そのものもだいぶ傷んできてはいるのですが、それ以上に中途半端に壊れて散乱している木材が廃墟っぽさというか無残さを増幅しているような気がします。
多分、散乱する木材や瓦礫などを綺麗に撤去したら、同じ廃墟でも公園などに残されている遺構(例えばこんなの)の様になって、だいぶ印象が変わる気がします。
もっとも、荒れるに任せたところも含めて軍艦島の良さだと思うので、それは無粋なことかもしれませんが。
それから、棟毎に(建築年が異なるので当然と言えば当然なのですが)意匠がばらばらで、社宅と言う用途から過剰な装飾もなく、外壁もコンクリートの打ちっぱなしの棟が多く、また付け焼刃的な改修を繰り返した均整の崩れたフォルムなどもあいまって、よく言えばハンドメイド的なぬくもりを感じないこともないのですが、原付的にはどちらかと言うと、不安定感と言うか、なんとなく落ち着かないソワソワした印象を受けました。
船はいよいよ島の北岸側へと進みます。
北岸側は比較的空間に余裕があります。
まず写真中央に位置するのが端島病院の建物。
この建物も増築を重ねて現在の姿になっています。
その手前に立つ低い建物がちどり荘という名前のついた教職員用の社宅です。
また背後に見える明るい白の外壁を持つ建物は68号棟の隔離病棟になっています。
共に昭和33年築。
背後の大きい建物が65号棟の北側の棟になります。
そして、この島へ訪れる者が一番最初に目にし、今回も一番最初の写真に掲載した端島小中学校の建物です。
端島病院と同じ昭和33年の建物です。
端正な雰囲気を持つ建物ですが、平成3年の台風の際にグラウンド側の護岸が流失し、そのまま建物下の基礎部分までをごっそりと流し去られてしまうという被害を受けています。
最低限の補修が行われたようですが、人が住むところではないので、建物の基礎はまだむき出しのままで、危険な状態となっています。
島を一周し終えて、船は長崎港の方向へ船首を向けました。
心配だった船酔いも、穏やかな陽気で波も割と穏やかだったせいで何とか持ちこたえられました。
もっとも、所々で船を止めてゆっくりと建物を見学できる時間が何度かあり、そのときばかりは気を抜くと少し酔いそうになりましたが、写真の撮影に集中していたせいか、はたまた朝食の食べ方が良かったせいか、やり過ごすことが出来たので一安心です。
島から離れ始めたら船の速度が上がり、それとほぼ同時に船室内で島のかつての様子を上映するというアナウンスが流れて、デッキからみんないなくなってしまいました。
原付も見てみたかったのですが、船内に入ったら確実に酔ってしまうので、そのままデッキにいることにしました。
この寒空に付き合わせるのもなんだったので、カミさんには船内に入ってもらいました。
行く時にも見ていたのですが、件の火葬場が設けられていたという中ノ島の脇をもう一度通過。
島は明治の頃に端島同様炭鉱として開発されたのですが、出水が多かったらしく程なく閉坑となっています。
写真では見づらいですが、よく見ると当時の炭鉱施設の残骸などが残っている場所が見えます。
ちょっとした公園になっていて遊歩道なども作られているのですが、状態はあまりよくないようです。 というか、島へ渡る定期船もないので、一般人は殆ど立ち入らないものと思われます。
そして2時間半ぶりに長崎港に帰着。
こうやって戻ってくるとあっという間ですな。。。
出発時には慌しくてターミナル内をじっくり見られなかったので少し散策してみたら、館内の土産物屋でこんなものを見つけました。
一口香(いっこっこう)。
これは事前にネットで存在を知っていたので、カミさんに是非に!といって買ってもらったのですが、饅頭のようなふっくらとした見た目にも関わらず、表面は硬く、半分に割ると中はなんと空洞、という一風変わったお菓子です。
味はいたってシンプルなものですが、お土産とかには面白いかも知れません。
ちなみにこのメーカーは「一○香 (いちまるこう)」を名乗っていて、パッケージにも一○香と記載されているのですが、商品名の方は上述の通りこれで「いっこっこう」 と読むそうです。