島へ渡る橋は、馬にとっての目の前ぶら下げられた人参。虫にとっての誘蛾灯。島好きにとって足すら濡らさずに海の向こう側の陸に行ける夢の扉。据え膳食わぬは男の恥(しつこい?)、という事で迷いなく橋を渡る。橋は太鼓橋のように瀬戸をまたぎ、ループ橋を一周して対岸の島へと上陸。上陸したその島は沖家室島(おきかむろじま)という。
思いがけない離島の離島への上陸にテンションが上がる。
島旅78島目は沖家室島となった。
このあたりの地名が家室というようで、本土側が地家室、島のほうが沖家室という地名になっている。
沖家室島は小さな島なので、メインストリートとなる海沿いの道以外に車が通れる道はないようだ。
集落の一番奥まで進んでそのまま折り返してこようと思っていたが、海沿いの丘の上に立派なお社が見えたので、初詣を兼ねてちょっと散策してみることに。
車を停めて車外に出ると、折から吹き荒れている強風にあおられる。
参道の途中に閉校となった沖家室小学校の校舎があった。ここには何人くらいの児童がいたのだろうか。。。
小学校を横目に更に登っていくと本堂の広場に着いた。
本堂から沖家室大橋のほうを見ると、橋の向こう側に白波が立っているのが見える。その辺は割と荒れた感じなのに、橋のこちら側はさざなみが立つ程度で、潮流の兼ね合いもあるのだろうが面白い光景である。
訪ねた神社の名前は蛭子神社という。小離島にあるとは思えない立派な本堂に感心する。
関東での参拝というと、大抵お堂の前で手を合わせるだけで終わらせるが、ここに時折やってくる地元の人は、何の躊躇も前置きもなく本堂の扉を開けて中に入ってゆく。
本堂の前に立ってよく見ると賽銭箱も鈴も見当たらない。どうしてお参りしたものかと立ち尽くしていたら、ちょうど通りかかった人から「中へどうぞ」と声をかけられた。
皆さんはこの中でお参りしているのですか?と聞いてみると、お参りだけでなく祈祷をやって貰っている、という。
祈祷となると、お賽銭程度の金額では失礼にあたると思い辞退したのだが、ちょっと怪訝な顔をされてしまった。。。
それで少し居心地が悪くなってしまい、そそくさと退散するように参道を下る。気を取り直して集落を散策してみることに。
一本裏路地へ入ると、そこに広がる光景はまさに離島のそれだ。昭和の風情が残る小径はなんともいえずノスタルジックで情緒にあふれている。
そんな思いに浸りながら歩いていると、唐突に主を失った家が無言で佇んでいる。
「そんないいもんじゃねーよ」と言われている気がして背筋を正してしまう。
写真のように空き家になってしまった家もぽつぽつと見かけるが、特にこれといったもののない小離島にもかかわらず、人家が思いのほか密集している。この小さな島にそんなに窮屈に家を建てなければならないほど住民が多かったのかと不思議に感じていた。
後に調べたところ、この島は古くから人が住み着き、明治のころにはなんと3000人からの人が暮らしていたという。流石にこの小離島で3000人の食い扶持を賄うことは難しく、出稼ぎに出る人も多かったそうだ。
元からそういった気風があったせいか、前述のハワイ移民のときにもこの島から多くの人がハワイの地へと旅立っていった。
ちなみに、沖家室島の沖合いに水無瀬島(おおみなせじま)という無人島があり、かつては屋代島や沖神室島の救済島として使われていたそうだ。
救済島というのは、島で身を持ち崩した人をそれらの島へと移住させ、開拓したり作物を育てたりさせることで生活を立て直す場として利用されていた島である。
愛媛にある由利島(ゆりじま:鉄腕DashのDash島や、進ぬ!電波少年でロッコツマニアが無人島生活を送った島)や、長崎の宇々島(ううじま)なども救済島として知られている。
島に渡ればお金を使うことがないので、5年もいれば十分に蓄財して生活を立て直すことができたので、かつては島への移住を希望する人も多かったそうだが、高度経済成長期に本土側のインフラが整備されるにつれ、それら救済島での生活との格差が広がり、徐々に移住希望者も少なくなって、今ではそういった風習は廃れてしまったということだ。
かように賑わった島にも過疎化の波は例外なく押し寄せる。現在の人口は150人ほど、しかも住民の大半は高齢者ということで、さっき神社で見かけた人たちもやがて記憶の中の風景になってしまうのかも知れない。
路地を抜けた先の、集落の一段高いところに建つのが泊清寺(はくせいじ)だ。
この寺は高官を乗せた船が島に停泊した際の本陣として使われたという、由緒のある寺である。
本堂の中に、ハワイへと渡っていった移民から多額の寄付があったことを記した額が残っているそうだ。
さっき蛭子神社でお参りをしそびれてしまったので、ここで初詣。節操がないですかそうですか。
参拝を済ませたら車に戻る。上陸したときには車を降りることすら考えていなかったが、歩いてみると思いのほか見どころが多く、小さい島にもかかわらず想像以上に時間が過ぎてしまった。
さて、ぼちぼちこの後の行程を考えておきたいところ。
秋芳洞方面へのアプローチに適当と思って周防大島に上陸したのは前述の通りだが、今回行きたい場所をめぐるコースに思いを巡らせていると、秋芳洞に行くと他を色々諦めることになりそうだったので、結局秋芳洞を諦め、広島方面へ進路を定めることとした。
時計を見るとすでに昼を回っている。広島と言っても次に行きたいのは大久野島である。まだ島は全体の半分も見れていないが、少し押し気味な時間を見て若干焦る。
特にハワイ移民に関する資料を展示しているという日本ハワイ移民資料館にも行けていない。行けていないがどうせ今日は休みのはず。ここであがいてもしょうがないので、折角だから宮本常一さんの軌跡を訪ねたり戦艦陸奥の記念館を訪ねたりする機会に合わせてじっくりと巡ることにして、次の目的地に移動することにした。
途中、カミさんが国道沿いのみかん直売の看板に興味を示す。行ってみたいというので寄り道。
訪ねてみると、人懐こそうなおじさんが「まんが図書館」と銘打った建物の脇で、みかんを申し訳程度に並べて売っていた。
何屋なのかイマイチわからない。漫画は貸本なのか売り物なのか、中で読むものかもわからない。みかんは殊の外安価に売られている。おじさんに話を聞くと、売られているみかんは100円と250円の2種類かあり、100円で売られている方は少しシーズンを過ぎたもので、酸味がほとんどないので小さい子供に喜ばれている。また250円のものは青島みかんで、こちらはいくらか酸味があるので大人に好まれる。と教えてくれた。
酸っぱいみかんはいやだなぁ、などと言っていたら、試食に一つずつ剥いてくれた。
100円のみかんはとにかく甘くて、果汁20%のオレンジジュースのようだったが、青島みかんはいうほどの酸味はなく、甘みの中にさわやかな酸味がほのかに感じられる程度。
これだったら、おじさんの言うとおり、確かに大人は青島みかんのほうが食べやすそうだ。
実は周防大島は山口県内でもっともみかん栽培が盛んな場所で、県内の生産量のおよそ8割がこの島から出荷されているとのこと。
それゆえか、最近島ではみかん鍋という謎料理を売り出している。話には聞いていたが、それは鍋として成立しているのか、想像力が追い付かない。カミさんがその辺を聞いてみると「食べられるところは確かにあるけれども地元の人はめったに食べないねぇ」と言って笑っていた。
その言葉にすべてが凝縮されている気がする。
それはさておき、250円の青島みかんを購入した。
15個ほど入っているので、
旅行中のビタミンC補給にもってこいだ。
まんが図書館を出発すると、程なく大島と本土を結ぶ大島大橋が見えてきて、それを渡る。
急流として知られる大畠瀬戸の上を1キロあまりの長さで結んでいて、トラスが並んだその姿は力強さと柔らかさが同居したような特徴的なシルエットをしている。
この橋を渡って、3日ぶりに再び本州の土を踏む。余韻を楽しむ間もなく広島方面に進んでいく。まだまだ先は長いのだ。