渡良瀬のトロッコと鉱山見学【7】(2021/07/23)
さて、ようやく観光坑道体験である。
足尾銅山は江戸時代から続いた日本有数の銅山で、その産出量は日本一と言う。
既に閉山しており、閉山した坑道の一部を足尾銅山観光が体験坑道として公開している。
足尾銅山から産出された銅は明治維新後の日本の発展に大きく寄与した。だが一方で、日本最初の公害と呼ばれるような公害を周辺地域へもたらしたことでも知られている。
具体的には、煙害によって樹木が枯死したり、燃料として大量に伐採が行われたことで、山がはげ山となり、大雨の折に下流域が大洪水に見舞われる被害が頻発するようになった。また、精錬によって発生した廃液を川に流していたため、その毒が下流域の作物を枯れさせたり、鉱毒を取り込んだ作物が出荷停止になったりするなど、大きな影響を及ぼした。
これらの事件の影響で、流域の住民に健康被害や不作などによる貧困化などの被害が多発し、周辺の農民によって国へ鉱山の操業停止を訴える陳情が行われたが、当時は富国強兵の時代。国も運営企業も訴えに耳を傾けることはなかった。
その状況に立ち上がったのが、渡良瀬川流域の谷中村出身の議員だった田中正造。議会で質問したり、明治天皇へ直訴を行おうとしたり、といった運動を続け、少しずつ国を動かして対策を進めることに成功した。
群馬、栃木、茨城、埼玉の県境付近に広がる渡良瀬遊水地と言うのがあるが、表向きは渡良瀬川の洪水対策としての調整池とされているが、実態は鉱毒の沈殿池としての役割を持たされているという。
・・・的な話を小学生か中学生の頃学校の授業で習った。
なんで今もってそのことを憶えているのかは分からないが、田中正造の波乱に満ちた生涯に興味を覚えたからかもしれない。
入場料を払ってトロッコ列車乗り場に向かう。
自分は小学校の修学旅行でここに来たことがある。もう30年も昔の話なので、おぼろげな記憶しかない。というか、鉄キチ三平だった当時の自分にトロッコ以外のものが見えてなかったから、と言うのがもっぱらの理由だがw
今回ここを訪れたのは、当時見たものがどんなものだったのか、改めて確かめたかったから、というのもある。
通路が順番待ちの列用に仕切られていたが、並んでいる人はほとんどいない。程なくやってきたトロッコに乗れた。
自分らが最後だったようで、トロッコ列車の最後尾に乗り込んだらすぐ発車。
ソーシャルディスタンスを考慮して、座席ごとにビニールシートがかけられている。
自分たちが乗った場所だけなぜか妙に足元が広い。車いすで乗る人向けの席とかだろうか。前列が迫っていない分広々とした景色が楽しめた。
トロッコはゆっくり進んで1分くらいで坑道の中に入っていく。
が、坑道の中に入ったらほどなく終点で下車となった。30年前もあれ、もう終わり?と思ったことを思い出した。
下車してからも係員からのアナウンスは特になく、宛てなく他の見学者の後ろについていく。
ここから先は、順路に沿って鉱山が操業を開始した江戸時代から、閉山となる昭和時代までの坑夫たちの採掘の様子と、採掘方法の変遷を人形を用いて説明している。セリフが通路のスピーカーから流れて来て、なんか愚痴っぽいことを言い合っていた。
まず最初は江戸時代、最初期の手掘坑夫を紹介している。道具はノミとトンカチである。これでは進捗ははかばかしくなかっただろうが、当時はこういうやり方しかなかったのだろう。
奥へ続く坑道の手前はゲートで塞がれ、フェンス越しに中の様子が見える。
この先どこまで行けるのだろう?と思いながら見ていたが、改めて写真を見て驚いた。
「この先1200キロ以上の坑道が続きます。」
わが目を疑った。1200キロ以上って。。。1200メートルの間違いではないのだろうか。
数百年に渡って採掘を続けていたらそのくらい掘れてしまうのだろうか。
1200キロと言ったら東京から鹿児島の先まで行ける。モタモタ走るトロッコに乗っても最奥部にたどり着くだけで2,3日かかるのではないだろうか?
まぁ、総延長だと思うので、並行して掘られている坑道などがあることを考慮すれば、そこまで時間はかからないだろうとは思うが、それでも行き帰りだけで一日の大半を費やしてしまいそうだ。まさか泊まりで採掘に向かっていた、なんてことはないだろうが、もしや!?
トンネルだから当たり前といえば当たり前だが、中は結構寒い。チビは薄着の半袖なので、かなり寒がっている。
上着を持参していないので、我慢してもらうしかない。。。風邪ひかなければよいが。
そして、明治、大正期になると、削岩機が使われるようになり、生産性が大幅に向上する。
最後は昭和後期。このころには安全対策もしっかり講じられるようになり、黄色いヘルメットなどは今風である。
そして坑道を抜けると、工作器具や歴史などが展示されたスペースに出てくる。
このスペースを通り抜けると外に出る。距離にして300mくらいだっただろうか。
建物の外には、鉱山に係わる仕事に従事していた人たちを紹介する人形が展示されていた。
そして、一画には操業中に資材や人を運んでいたモーターカーやトロッコが展示されている。このトロッコは見覚えがある。
当時は手前にベンチがあって、そこに友達が座ってポーズを決めている写真を持っている。何故そんな写真を持っているかと言うと、その後ろでモーターカーをしげしげと眺める自分が映り込んでいたからであるw
ほんと、鉄道しか見てなかったんだな。。。
トロッコ列車の線路を横断するときに、丁度中から戻りのトロッコ列車がやってきた。
線路わきの建物には寛永通宝のオブジェが掲げられている。
この前で記念撮影をしたんだっけ。
順路としてはこの後、建物の中の資料館を見学することになっている。が、ここでチビが催す。とっさにトイレを探すが見当たらないので、順路の先にある土産物屋に急行。
チビは限界にならないとトイレを訴えないので困る。
土産物屋は昭和の風情が色濃く残る空間だった。売られているものも、いつからそこに置かれているのか分からないようなものが沢山ある。
親としては買ってもしょうがないと思うものばかりだが、トイレから出てきたチビが早速どうでもいいようなおもちゃに食いつく。
土産物屋もそれを狙っているようなフシを感じぬこともなかったが、チビには優しく説得し、諦めてもらった。
ベンチの上でニャーが昼寝中。人慣れしていて、人が行き来しても全く動じない。
子供が集まってカワイーなどとはやしていたら、目を覚まして煩わしそうな顔をしながらどこかにいってしまった。
資料館がまだ見れていないが、ぼちぼち傘を返さないといけない時間だし、帰りの列車の時間もそろそろな感じである。
見たか見てないかでいえば30年前に間違いなく見ている(記憶は一切ないが)ので、ここは見送りとした。
ということで、30年ぶりの足尾銅山、あまり記憶は呼び戻せなかったが、大人目線で見て新たな知識となったことも色々あり、案外楽しめた。
それから再び駅前の分庁舎に戻って傘を返却。ここへきて雨が止んだ。なんだろ、歓迎されていなかったのかな。。。
帰りの列車は普通列車だ。乗客がそこそこいて、席の空きがなかった。
カミさんとチビは空いている席に座らせることが出来たが、自分は通勤列車になった。
列車が発車すると2人とも程なく眠りに落ちていった。いいなー。。。
出発駅の神戸駅で降りて、車に戻ってようやく一心地。
あとは帰宅するだけだが、最後にひと風呂浴びて帰りたい。
この辺りで温泉というと、件の国民宿舎くらいしかない。ちょっと戻る感じになるが国民宿舎のお風呂に入って帰ろう。
向かう道すがら、草木湖の噴水がまた上がっているのが見えた。
慌てて見えるところで車を止めて撮影・・・したが、これまた終了直前だったようで、力なく噴出する噴水の姿しか撮れなかった。
サンレイク草木の温泉は500円と良心的。ここも小ぢんまりとした風呂場だったが、十分温まれて満足。
風呂から上がってきたカミさんから、ここで一泊するかどうか聞かれた。
確かに泊ってしまえば足を伸ばしてゆっくり眠れるので、最高なのだが、国民宿舎はその名前と裏腹に宿泊料金はかなり高い。
値段を聞いてみたが、まぁ、頑張って帰るか、と言うしかなかったw
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久しぶりにボリュームのあるお出かけをした。7ページにわたるエントリは2015年以来か。。。
今回は、遊園地に虫取り、トロッコ列車、坑道探検、と、あれこれ詰め込んだが、チビ的に夏休みのよい思い出になったのではないかと思う。