広島・高松遠征【8】(1991/05/06)
1991/05/06
長野には寝台列車の常で、恐ろしく早朝に到着。確かまだ6時前には着いてしまった。
とりあえず、ここまで運んでくれたちくまの雄姿を撮影。
それから、ホームに停まっていた飯山線のキハ40。
運転席の窓下に「VOITURE AMITIE」とペイントされている。
今日まで続くこの塗分けは、撮影の数年前くらいに始まったものだ。
車両に意味の良く分からないワンフレーズをペイントするというのは他ではあまり見られず、随分気取ったものだな、と思った記憶がある。
どうもフランス語らしいのだが、Google先生に聞くと「友情車」という意味らしい。なんだ友情車って。
他の列車はまだ動いていなかったので、とりあえず駅を出る。時間が時間だけに駅は売店くらいしか開いていない。周りもコンビニぐらいである。とりあえず、コンビニで朝食を買って待合室で貪った。
そのあと、長野と言えば善光寺ということで善光寺に行ってきた。行ってきたのだが写真は一枚も撮影していない。なぜだ。。。
そしてぶらっと一周して長野に戻り、長野電鉄の撮影タイム。
長野電鉄も駅が地下にあるので、撮影しづらいが、まぁしょうがない。
今はなき木島線木島行きの2500系。いうまでもなく元東急の青ガエルである。
それから特急2000系
当時の長野電鉄はこのくらいしか稼働している車両がなかった。自社発注のOSカーと呼ばれる0系、10系などはより新しい車両であるにもかかわらず、既に運用から外れていた。
0系は半年ほど前に父親と長野にドライブに行った折に須坂の車庫で留置されているのを確認している。
ご覧の通り、写真はビデオテープからのキャプチャである。このドライブではビデオカメラだけ持って出かけたので、この時に見かけた車両はビデオテープでしか残っていない。。。テレビで見るような鉄道の動画を撮りたいと思ってチャレンジしたからなのだが、テレビのように上手に撮影できなかったことは言うまでもない。
折角来たのだから、須坂まで足を伸ばして0系をもう一度ちゃんと撮っておけばよかったかな。
10系の方は、それから20年近く経過して現地を探訪した折に須坂の留置線に停められているのを確認している。
まぁ、そんなわけで写すものもなくなってしまったので、JRの駅に戻る。長かった旅もいよいよ終盤戦である。
今日は信越線にひたすら揺られて、無事帰宅できれば大団円となる。
ということで、長野から長野色の115系に乗って、軽井沢へ。
途中に上田電鉄があるのだが、この時は途中下車していない。もうホームシックにかかっていたのだろうかw
残っている写真を見ても割と家路へと急いで進んでいる感じがする。
軽井沢で降りると、ホームにはスーパーエクスプレスレインボーが停まっていた。
なぜかこの車両と江戸と呼ばれるお座敷列車は、都内でも遭遇率が高く、何度か撮影している。
そして、横軽越えの専用機であるEF63。
169系。長野色、でよかったんだっけ?なんという通称の塗分けだか忘れてしまった。
次の高崎方面行きの列車に乗り、横軽越えをして高崎で下車。
高崎から八高線に乗れば自宅はもう間近。八高線乗り換えの待ち時間で、上信電鉄の留置線に停まっていた1000形を撮影。
それとデハ200形二次車も留置されていた。背後に連結されているのはデハ20形だろうか。
それ以外には停まっていなかったので、JRの方へ再び移動。
ホームに新特急谷川の185系200番台が入線してきた。右側にキハ35が見えるが、よく見ると前面の補強が無いバージョンである。185系も既に過去帳だが、キハ35を意識していなかったのが惜しすぎる。。。
そして八高線に乗り小川町で東武東上線に乗り換え。
小川町で撮影したキハ35。
そして東上線で坂戸まで乗車して無事帰宅と相成ったのであった。
ちなみに、小川町から乗車したのが特急さだみね。東武東上線では当時大変レアな列車だった。
中身はただの8000系だが。
かつては前面にヘッドマークを掲げて走っていたが、この頃には左上の種別表示のところに書かれるのみとなってしまった。
ということでゴールデンウィークをフルに使った4泊5日の大遠征は幕を閉じた。
中学生で何日間も遠くまで出かけてしまうって、親の感覚としては大層不安だったのではないかと思う。
その点父親が放任主義だったおかげでこうして旅をすることが出来たのは有難かった。
この後、中学を卒業し高校に進学したが、その頃には鉄道写真を撮っている、とか鉄道マニアだ、と言われることに対して気恥ずかしさが先行するようになり、また、音楽やPCなど趣味の方向性も変わってしまったので、暫く鉄道からは離れることとなった。