石巻・浦戸諸島巡り【5】(2024/03/30)
石巻市立大川小学校(震災遺構):
2024/03/30
起床は6時。田代島へ向かう船は9:00発なので、早めに道の駅を出発して、1時間くらい大川小学校を見学してから船に乗る計画である。
宿泊した道の駅上品の郷はこのような感じの施設である。ちなみに「上品」と書いて「じょうほん」と読む。
食事を済ませて7時過ぎに出発。道の駅から大川小学校へは北上川に沿った土手の上をひたすら走って行けば到着する。時間のせいか走行する車は少なく、周囲は田んぼか荒地が広がるだけの寂しい道が続いている。

新北上大橋のある交差点を直進すると、ほどなく校舎が見えてくる。まだ開館前なので駐車場に停まる車もなかった。

建物の周囲は広い園地になっていて、学校敷地に隣接する形で資料館と慰霊碑がある。慰霊碑は大川地区で被災し亡くなられた418名を慰霊するために、3回忌を迎える際に建立されたものだそうだ。
校舎(教室棟)はコンクリート造で、大きくラウンドしたモダンな設計になっている。学校が現役で利用されていた頃はさぞ快適な学び舎だったに違いない。

捜索の際に重機で壁面を壊したため、外部に面した腰壁と窓ガラスがほぼなくなっており、まるで建設途中で放棄された建物のような痛々しい姿を晒していた。
校門側から見て手前側にあるのが低学年の教室、その背後にあるのが中高学年の教室だったそうだ。どの教室も中にあったものはほぼすべて撤去されているが、どの教室も黒板だけは残されていた。黒板は津波の水流にも耐えられたのだろうか。

2階の教室は勾配天井になっていて、上部にブロックガラスの採光窓が備わっているのが見えた。

その教室棟の2階からプール棟を繋ぐ渡り廊下は、津波の水流によって、ねじ切れるようにして倒れてしまっている。この辺りには6m以上の津波が襲来したということだが、津波は数10cmの高さでも人が立って抗うことはできないほどの威力があるということだ。それが6m、コンクリートの構造物でも容易に破壊させるだけの暴力的な水圧に晒されたのだろう。
そして、渡り廊下を渡った先には体育館があった。津波によって基礎とステージ袖を残してすべて流失してしまった。その校舎は500m離れた場所に流れ着いていたそうだ。
石巻市には、震災遺構として昨日見学してきた門脇小学校と、この大川小学校の2校が保存されている。両方とも建物は廃墟さながらに徹底的に破壊され尽くされているという点では同じなのだが、この両校には大きな違いがある。それは児童の犠牲者の数である。
門脇小学校では校舎に留まっていた児童240人が全員生還しているが、大川小学校では78名のうち、実に74名もの児童が死亡または行方不明となっている。また、教員も11名中10名が死亡するという大惨事となった。
何が両者を分けたのかというと、避難行動の差である。学校に隣接して裏山が控えていて、地震発生から津波の襲来まで1時間弱の時間があった点は両校ともに共通しているのだが、門脇小学校の場合は、津波第一波の到来前後にすぐに裏山への避難を開始し、全員を裏山から高台に移動させたことで、犠牲者を出さずに済んでいる。
一方の大川小学校は、地震発生後に児童を校庭に避難させた後、40分以上に渡って校庭に留まり続けた。当日は校長が不在で指揮命令系統が曖昧になっていたことや、津波襲来時の避難先の策定が適切になされていなかったことが影響して、判断がスタックしたらしい。一部児童は津波の襲来を予見し裏山への避難を訴えるが、教員側はそれを頑として認めなかったという。
それには、この辺り一帯が津波の浸水想定区域に指定されていなかったために、そもそも津波が襲来する可能性を予見できなかったことに加え、裏山は傾斜が急で当時雪が降っていたために、学校に避難していた高齢者を引き上げるのが難しく、校庭に留まった方が安全であるという判断が働いたからだといわれている。
そうして地震発生から40分以上膠着状態が続いたが、その時、市の広報車が通りかかり、津波が海岸の松林を越えて遡上し始めたので、高台へ避難するよう呼びかけながら通過していった。それを聞いてようやく少しでも標高の高い場所へ移動しようということになったが、その時点でも裏山は避難先とはならず、三角地帯と呼ばれる場所へ移動することになった。
三角地帯とは、我々がここへ来る直前に通ってきた新北上大橋手前にある微高地を指している。確かに標高がわずかに高い場所ではあるが、せいぜい3m程度であるうえ、なにせ橋の袂だ。川を遡上する津波が堤防を乗り越えたら瞬時に激浪に飲み込まれる場所である。そんなところに避難しようという判断がなされたこと自体が、今日の感覚では理解に苦しむものだが、日本全土で過去数十年に渡って大津波の襲来がほとんどなかったことや、そのメカニズムについての研究が充分でなかったことも考慮すると、稚拙のそしりは免れないものの、当時の判断としては致し方なかった部分も理解できる。
だが、事態は最悪の結末を迎える。想定外の高さで北上川を遡ってきた津波は、児童たちが三角地帯に到達する直前に堤防を乗り越えた。三角地帯へ向けて避難を開始した僅か1分後である。児童の列は何をする余裕もなく激浪に飲み込まれてしまう。列の後方にいたわずかな児童と教員のみが後方へと避難し、最終的に裏山に流れ着いたことで難を逃れたが、84名の児童・教員は助からなかった。
小学生の娘を抱える親としては、この痛ましい結果にやりきれない思いが募る。この事故は震災の翌年ごろに掲載されていたネットの記事によって自分の知るところとなった。自分はこの時までほとんどの教職員は、常に正しい判断を下してくれるものという風に考えていたのだが、この一件を知ってからはその考えを改めた。
この惨事においては、その後更に胸糞が悪くなるような展開が待っていた。
最愛の我が子を失った遺族により、当時の小学校の判断について問う声が上がり、事故検証委員会が設置されることとなったが、生還した教諭や児童から聞き取った内容について、遺族側への公表を行わなかったばかりか、遺族側と接触させないよう妨害を行ったり、口止めがなされたりしたという。
そしてその調査結果についても、当日の教員の判断の不手際や、適切な避難先の策定を行っていなかった教育委員会に責任の矛先が向かないよう、的外れな内容に終始し、遺族の疑問にほとんど応えられていないものだった。だが、語るに落ちるとはまさにこのことである。そうした対応自体が、むしろ教育委員会として現場判断の致命的な誤りを認識しつつ、責任回避に汲々としていたことをあぶり出してしまっている。
だが無謬性にこだわるあまり遺族の感情を蔑ろにしてよいという話にはならない。主張すべき正当性があるのであれば、それを包み隠さず議論するべきだろうし、そうでないのであれば、稚拙な判断がなされてしまったことは致し方ないにしても、正しく認めて今後の改善に繋げて行くべきではないだろうか。
唯一救いがあるのは、そうした対応に納得しかねる遺族によって民事訴訟が起こされ、結果として高裁より宮城県および石巻市側に賠償を命じる判決が出されたことだ。お金で解決する問題ではないが、これによっていくらかでも溜飲が下がってくれることを願わずにはいられない。
それにしても、南三陸町の戸倉小学校の教員のエピソードではないが、震災当日の教員に過去の三陸での津波を知るものがいて、少しでも安全に振った判断を下していてくれたらと、無残な姿になり果てた校舎を見てやりきれない思いが募ってくる。自分の娘がそんな目に遭うなんてことがあったらと思うと、胸が張り裂けそうになる。
カミさんは自分の横で目を潤ませ、チビも自分の学び舎と重ね合わせているのか神妙な顔をしていた。チビが、なんか悲しいねと自分に訴えてきたので、じゃあ校庭1周してこいと促したら、グラウンドに敷石で再現されたトラックに沿って校庭を全力疾走で1周していた。
いつしか、ここにもこんな光景があったのだろうなという思いで彼女の走りを眺めた。1周走り終え、息を弾ませながら我々の元に戻ってきたチビの表情は明るくなっていた。その姿を見て少しだけ救われたような気がした。

校舎手前の花壇にはパンジーなどの花が植えられていた。地元の人が今でも手入れをされているのだろう。
校庭を振り返ると山の斜面がある。その斜面に津波到達点を示す看板が建てられていた。あの上に逃げていれば・・・。
引きで撮ったのがこちらの写真だが、こうしてみても、ここからそこまで目と鼻の先だ。どうしてここへ登らなかったのだろう。児童の一部は実際にここに登ったらしい。だが、教員からたしなめられ引き戻されたという証言がある。返す返すも残念な話だ。