石巻・浦戸諸島巡り【9】(2024/03/30)
野々島:

そんな不安に悶々としているうちに島旅119番目となる野々島に到着。この島は浦戸諸島の中央部に位置しており、標高は23mほどとかなり平たい島である。
上陸すると正面に浦戸諸島開発総合センターの建物がある。それから岸壁から少し奥まったあたりに数軒の真新しい民家が見える。港前はアスファルトで舗装された大きな広場となっている。
そうなっているのは、ここも東日本大震災の津波によって港周辺の人家が流されてしまったからだ。住む場所を失い、生きる糧も失って、生活再建のめどが立てられず、島外へ出ていくより他ない状況が続いているらしく、現在は人口50人ほどまで減少してしまっている。
整然とした広い敷地に点々と真新しい住宅が建ち並んでいる様子は、造成したてのニュータウンのような印象があるが、ここにこれから沢山建物が建ち並んでいく未来はちょっと想像しづらいので、妙にうら寂しい感じもする。
現在地である野々島港は島の東側にある。隣の寒風沢島へ渡る学校下桟橋は島の西側にあるため、また島を横断することになる。桂島よりも小さな島なので、移動にそこまでの時間は要さないと思うが、渡船の船頭からもたらされた情報が気になっている。もし急に海況が悪くなったら大変なので、あちこち立ち寄りせずに最短距離で移動することにした。
更地が広がる港前エリア歩いていくと、島の西側へ続く道が見えてくる。その路地が妙にいびつな形状をしている。港湾地区からこの道へ直接つながる道路はなく、その両者を斜めに横切る道を経由する道筋になっている。といっても道を隔てる敷地は空き地になっているので、敷地の中にショートカットの轍ができている。
恐らくは元々あった家の敷地を区画整理せずに復旧したからだと思うが、辺りはほぼ更地なので余計にその道筋の違和感が強調されている。
学校下桟橋への小径:
その小径を進み始めると、まず一旦南東を目指して進んで、数メートル程度の極々低い丘を乗り越えると、今度は北東に進路を変える。
少し進んだところに右手に小さな墓地がある。その少し先に、海岸まで見通すことのできる景色が開けた場所に出た。今歩いている道は尾根伝いの道だが、そこから見える景色はほとんど高さを持っていない。やはりなだらかな島である。
その場所から左手方向を見ると、斜面の下の方に平地が広がっているのが見えた。分かりづらい写真で恐縮だが、あそこはラベンダー畑になっているそうだ。
浦戸諸島の島々は入り組んだ海岸線を活用して、あちこちに干拓地が作られている。戦後の食糧難への対策として、全国津々浦々の内湾を堤防で閉め切り、その内側を干拓して農地に変える政策が長らく続けられてきた。ところが後年には米あまりとなって減反政策が進められるようになった。だがなぜか干拓は中止されることなく続けられたため、誰が使うのか分からない干拓地があちこちにできていった。
浦戸諸島の周辺に作られた干拓地も、恐らくその一環で作られたものだが、よく見ると周辺の無人島などにまで及んだ形跡がある。何の意図があるのか不明だが、グーグルマップを見ていると、そうした入江のひとつひとつに「〇〇農地海岸堤防」と記載されており、それであることが分かる。
だが、減反のみならず、近年では少子高齢化に伴う離農者の増加や、産業構造の変化などもあいまって、干拓されていないところですら耕作放棄地になっている。そんな状況下でこの干拓地が活用される道筋はほぼない。
宮古島の言葉で歌う希有な歌手である下地イサムが、Nee(ニー)というアルバムのフーマンユー(豊満世)という曲の中で、「人(ぴすとぅ)ぬうらん島(すま)んかい護岸ゆつふぁでぃな 作(つ)ふちかいつがみま壊(きす)しれんな」と歌っているが、まさにその歌詞のままの現実である。
ただし、このラベンダー畑もそうした干拓地のひとつであるらしく、希有な活用事例ということになるのだろう。
風の丘:

そのラベンダー畑を見下ろす場所をほんの少し進んだ右手側に、風の丘という看板が見えた。ちょっと見に行ってみることに。
地面にはスイセンの花が所々に植えられ、その周囲にオオイヌノフグリの小さな青い花が一面に咲き誇っていた。そういえばオオイヌノフグリなんて最近見てないなぁ。

奥の方へ進んでいくと、木にかけられたお手製のブランコがあった。チビはブランコが大好きなのですぐに食いつくかと思ったら、なぜか怖じ気づいて、やらないと言っている。手作りのブランコは怖いのだろうか。
カミさんが呆れて、じゃあ私が乗ると言って腰掛けて漕ぎ始めた。意外にスムーズな動きでスイングしていて案外楽しそうだ。ただし木の幹がカミさんの重心移動によってグワングワン揺れていたので、折れやしないかと心配にはなったが。
更に奥の方に遊歩道が続いていたので進んでいくと、眼前に多島海が現れた。字内浜という場所のようだ。左側に見える島は前島といい、正面奥の小島が焼島、そして右側が陰田島である。陰田島は別名おいらん島とも呼ばれており、かけ田島という伝説があるそうだ。

一頻り景色を堪能して戻ってきた。奥に見える広い平地が先ほど紹介したラベンダー畑。こちらの写真の方が様子が伝わりやすいか。
浦戸小中学校:

そして更に歩いていくと、浦戸小中学校が見えてくる。かつては他の島にも小学校があったが、児童数減少による統廃合があり、現在では浦戸諸島で唯一の小中学校となっている。そのため、近隣の島の子供たちも船で渡って通ってきているそうだ。
ここまで来ると学校下桟橋はもう目と鼻の先。まだ幾分の余裕がありそうだったので、ちょっとお邪魔してみることに。
入口の分岐を過ぎると小高い丘の上にある校庭まで上り坂が続く。島の子供たちは9年間毎日のようにここを上り下りしているのか。だとしたら結構な健脚になりそうな気がする。

校庭はさほど広くないが、その奥の校舎は割と近代的な雰囲気だった。屋根の上にはプラネタリウムのようなドームも見える。この辺りなら夜は相当暗くなるだろうから、もしかしたら天体望遠鏡なども設置されているかもしれない。
今日は土曜日なので生徒はいないと思うが、校舎の方へ近づくことにちょっと気兼ねしてしまい、校庭で少しのんびりさせてもらった。遊具がいくつかあったので、チビが暫しの利用者となった。
この小中学校は野々島の北東方向へ向かって延びる半島の袂に建てられている。その先は幅数十メートル程度の細い半島が500mほどに渡って続いており、道などはないようだが、その先端部には貝塚跡があるらしい。先端好きとしてはその道なき道を歩いてみたい衝動に駆られるが、この先の予定も詰まっているので自粛。
学校下桟橋:
10分ほど校庭で休憩させてもらった後、再び元の道に戻って坂を下っていくと、ほどなく学校下桟橋に到着する。

桟橋への入口は仮設の通路になっていて、震災から13年を経た今も復興事業が続いているようだ。
寒風沢島は狭い海峡を挟んで目と鼻の先で向き合っている。その船着き場の辺りには集落が広がっているのが見える。桂島では渡船乗り場の方にも市営汽船が寄港していたが、ここは渡船専用の桟橋になっているらしい。

ここにも桂島で見たのと同じ、コンテナを改造した詰所が所在無げに建っている。例によって渡船は掲示されている電話番号に連絡して呼び出すシステムになっているので、さっそく電話をしてみた。ら、そのコンテナの中から電話の着信音が聞こえた。目と鼻の先で電話が着信するとなんか変な感じがする。
ほどなく相手が電話に出て渡船をお願いする。すぐに建物内に詰めていた船頭が出てきて船に案内してくれた。しかし仕事とはいえ、こんなひと気のない場所で狭い詰所に籠って、いつ来るとも知れぬ渡船客を待ち続ける気分というのはいかばかりか。
でも、自分がその仕事をすることになったら、渡船の合間にWebの更新に余念がなかったかもしれないw

そして再び渡船に乗り込む。ここも目と鼻の先なので船室に籠ることにした。

さっきのボートとは異なり幅が狭い。そして天井も低い。立って操船している船頭の頭が天井についてしまっている。
野々島の桟橋の遠景。本当に何もない場所に桟橋がある。