岩手へ【2】(2006/03/17)
秋田新幹線:
2006/03/17
2人を乗せたあけぼの号は7時少し前に秋田駅に到着。このあと秋田新幹線で盛岡駅へと向かうのだが、乗り継ぎの時間があまりないので駅の外に出ることはできなかった。なので秋田の地に降り立った実感はゼロである。
ぼちぼち朝食の時間なので、新幹線ホームへと続く通路の途中にあった売店で駅弁を購入。新幹線ホームに上がると、我々が乗車するこまち号は既に入線していた。写真を撮る間もなく新幹線に乗り込んだらほどなく発車。自分の初の秋田上陸はものの十数分で終了。
そして駅弁を広げる。駅弁というのはその響きだけで旅情を掻き立てるものではあるのだが、高い割に大して美味しくないイメージがあるので普段は買わない。
だが今回は少しも秋田に来たという実感を得るため、あえて駅弁にして地の物っぽい弁当を選んだ。
カミさんは温められるタイプの鶏飯を購入していて、思いのほか美味しく食べられた。その分、量は随分と少なめだったが。
近頃は駅にコンビニとかが併設されていて、気軽に暖かい弁当を手に入れることができるようになったので、駅弁の方も胡坐をかいていられなくなったのかもしれない。こういう競争が発生するのはいいことである。
ちなみに自分が秋田を感じる弁当として選んだのはわっぱめしだった。こちらは温められなかったので昔ながらのお弁当スタイルだが、まぁまぁ美味かった。
街を抜けると沿線の風景は雪景色とどんよりとした鉛色の空。水墨画のようなモノトーンの世界はまさしく日本海側の北国のイメージそのものだ。と言っても2006年は全国的に暖冬だったのでこれでも秋田の例年の降雪量からしたらだいぶ少ない方であったらしいが。
朝食を済ませたら盛岡に着くまでの間、今回の挨拶周りで顔を合わせることになるであろう人たちのプロフィールをカミさんにインプットしておく。
そして、盛岡駅に到着。
岩泉へ:
今日は盛岡の叔母さんの家に夕方ごろに到着することを目標に、日中帯に観光することにしている。ということで駅でレンタカーを調達。
岩手にいるお袋の親族(ややこしい言いまわしで恐縮だ)は、主に県南部にある一関という街の周辺に住んでいる。岩手県は日本で2番目に大きな都道府県というだけあってその県域は恐ろしく広大である。だからこれまでの観光はもっぱら県南部が中心で盛岡以北についてはほぼ未開拓である。まぁ、県南だって何十年も行っていないエリアなのだから未開拓と言ってもよいのだが。。。
盛岡からアプローチする観光地、ということで今回は龍泉洞という洞窟を訪ねることにしている。龍泉洞は盛岡から車で2時間ほど東に進んだ岩泉という町にある。わざわざそんな遠いところまで行かなくても、盛岡近郊にも観光地はあるのだが、ガイドブックをめくっても2人とも見たい!と思う場所がなかった。
龍泉洞を見て帰って来るだけでは芸がない。他に見たいところがないか地図をチェックしていたら岩泉からほど近い場所にある田老という町が目に留まった。それを見て田老の防潮堤の存在を思い出した。これ、前から一度見に行ってみたいと思っていたものだ。
という訳で、龍泉洞と防潮堤を見学するというなんだか変なドライブプランが出来上がった。まぁ、自分が変なものに興味を持つ人間であることはカミさんも承知済みなので、その点についての不満は特に上がらなかった。内心、結婚する相手を間違えた、とか思い詰めていないことを願う。。。
まずは龍泉洞だ。自分は幼いころに一度連れて行ってもらったことがあると聞いているのだが全く記憶にない。この洞窟は山口の秋芳洞、高知の龍河洞と並ぶ日本三大洞窟の一つとされ、奥まで幾重にも連なるどこまでも透明な地底湖が特徴として挙げられる。
ちなみに出発前の調査で、龍泉洞の近隣に安家(あっか) 洞という洞窟が存在することを知った。こちらもかなり大きな洞窟らしいのだが、発見されてまだあまり時間が経っていないので開発の手が入っておらず、手つかずの洞窟の探検が出来るそうだ。そちらも行ってみたかったのだが、訪問時は冬季休業中で入洞できなかった。再訪を誓う理由が出来てしまったw
東北地方も太平洋側は一般に降雪が少なく、秋田で大雪が降っている時でも岩手は晴れていることが多い。ただしそれは平地での話で、山間部は太平洋側でもしっかり降雪する。
盛岡から岩泉へ向かう国道455号線も北上山地の山越えルートとなる。自分は雪道の運転経験が殆どないので、山越えで大雪に見舞われたら運転が不安だ。とはいっても今回のルートは基本的に国道なので除雪は行き届いていると信じたい。借りたレンタカーもちゃんとスタッドレスを履いていたので、まぁ大丈夫だろう。
標高を稼ぐにつれ徐々に周囲が雪景色に変貌してきた。道はちゃんと除雪されているので何の不安もないが、気温はどんどん下がっている。
上の写真は道の途中で見かけた岩洞(がんどう)湖というダム湖である。見事に氷結している。このあたりはこんなにがっつり氷結するほど寒いのか。
岩泉線:
前述のとおり、盛岡から岩泉までは2時間程度の道のりである。その間、沿道には数戸程度の小さな集落が点在するのみで、ほぼ森の中のドライブとなる。峠をいくつも越えると、11:30過ぎにようやく岩泉の市街に入った。これでも岩泉は盛岡の隣町である。やはり遠い。
岩泉は市内中心部を流れる小本川に沿って開けた小さな町なのだが、JR岩泉線という鉄道路線を有している。
龍泉洞へ行く前にちょっと駅に寄り道してみた。
岩泉線はJR山田線の茂市駅から岩泉駅までを結ぶ盲腸線だが、存続していることが不思議に思えるくらいの超ローカル線である。
何度も廃止の議論が巻き起こっているが、沿線の道路整備が充分でないという理由でこれまで廃止を免れてきた。
なので、駅舎にも「乗って守ろうみんなの岩泉線」というスローガンが掲げられている。
駅舎に入ってみると、昭和の風情が色濃く残る広い待合所がある。が、人の気配はゼロ。ベンチのすべてを埋め尽くすような乗客が押し寄せたことは過去にあるのだろうか。
閑散とした駅だが、意外にも有人駅だった。
入場券を買おうと思ったが、販売していないというので1区間の切符を購入した。入場券が買えないとなると厳密に考えれば見送りなどで入場することが出来ないことになるが、まぁ現実は入場券が必要になる場面はほぼないのだろう。
硬券だったらベストだったが普通の切符だった。と言っても券売機で売られている切符よりも厚みがある紙にインクで印字された独特な風合いの物だった。玩具の切符っぽい。
こちらが時刻表。1日3便しかない。閑散とするにもほどがある。
だが、実際のところこれでも供給過多であるらしい。途中に秘境駅として名高い押角駅を抱えていることからも分かるとおり、沿線にある程度まとまった人口があるエリアもないし、盲腸線なので都市間輸送の需要もない。
かつて日本の津々浦々まで路線を伸ばしていた国鉄だが、需要のない所にまで線路を引いたものだから、赤字路線を多数抱えることになってしまった。ひどい赤字体質(赤字路線のせいだけではないが)は度々叩かれて、赤字路線の廃止は国会でも審議された。その結果、認定された路線は廃止されるか第三セクターへと移管されるかしたが、結局、再建果たせぬままやがてJRへと移管された。
岩泉線もそれらの路線に匹敵するほど営業係数の悪い路線だが、廃止対象とならなかったのは沿道の国道整備が遅れていたためだ。
廃止議論の際、代替交通手段が存在することが廃止要件のひとつになっていて、バスなどの交通機関で代替可能であれば鉄道は不要と判断された。だが、岩泉線の場合その道路の整備状況が悪く、バスなどへの代替が難しいという理由で廃止を免れたのだ。押角駅が秘境駅となるのも必然という訳である。
と言っても、それはもはや過去の話となりつつある。現在は並行する国道の整備も進み大型車両も問題なく通れるようになった。すなわち、この地域で鉄道を存続させる意義はもうほぼない、と言える状態になっている。
だが、東北の太平洋沿岸の地域は鉄道に関する情熱が並々ならぬことで知られている。どう考えても黒字経営が見込めない三陸鉄道もそうだし、沿線の自治体や集落が我も我もと鉄道路線敷設にこだわった結果、非常に非効率なルートになってしまった大船渡線もそうである。収支が悪くても廃線を拒む傾向にある。
JRとしても維持困難な路線であることから岩泉線の廃止を度々打診しているが、地元の反発が強くなかなか廃線に踏み切れない、という状況が続いていた。
その議論の終止符は意外なところで打たれることとなった。2010年に沿線で発生した土砂崩れに列車が巻き込まれ脱線する事故があり、その後運休となった。復旧工事が続けられていたが、翌年には東日本大震災によって再び被災。それから数年に渡り運休が続いたが、沿線住民側がそれで窮地に立たされたかというとそんなこともなく、図らずもJR側が提唱する不要論が証明された格好となってしまった。
流石に証拠を突き付けられてまで反発を続けることはできなかったのか、2014年に廃止となってしまった。
龍泉洞:
ちょっと岩泉線エピソードが長くなったが、ようやく龍泉洞へ移動。
駐車場に車を停め、清水川のほとりにこしらえられた遊歩道を少し歩くと入口がある。
拝観料を払って早速洞内へ。
今回もデジカメを持参せずに旅に出ている。なので写真はほぼ携帯電話で撮影したものである(一部頂き物もある)。と言うのも少し前に携帯を買い替えてカメラの性能がだいぶ向上したので、今回こそデジカメ任せでいいかな、と思ったからなのだが、暗い所はどうしても苦手なようだ。
洞内に入って撮影してみてやっぱだめだな、と思ったが今更どうしようもない。ということで、この後しばらくざらついた写真が続くがご了承のほど。。。
暫くゆるやかに下る桟橋状になった通路を歩く。その下には勢い良く流れる川?がある。水面は透き通っていて、いかにも冷たそうな感じだ。
恐らく第一地底湖と呼ばれる池の上に出てきた。
水面はコバルトブルーのような色味になっていて、底まで見通せるほど透明だ。暗い洞内であるうえ水も冷たく、生物の棲息に適さないので水が汚れないらしい。とは言っても、雨水は外から侵入してくるので、雪解けの時期や大雨の後などは濁ってしまうこともあるそうだ。
こういう水面を覗くと、大抵底の方に硬貨が沈んでいるのが見える。うっかり小銭を落としてしまう人がそんなにいるとも思えないので、恐らくお賽銭の類だと思うが、何の縁もゆかりもないこうした場所に賽銭を投げ込む人はいったい何のご利益を求めているのだろうか。
その先、順路が分かれ三原山と呼ばれる勾配区間の順路へと進んだ。この順路は健脚向きと明記されていたのだが、入り込んでみると確かに急勾配を登る階段と狭い通路が連続する順路だった。とはいえ、自分らにとってはそれほどインパクトのあるものでもなかったが。
それにしても初めて洞内を探索した人は、良くこんな急な斜面を登ったり水中を潜って進んだりできるものだと思う。進む進路がもしかしたら進退窮まるトラップ、なんてことだってあるかもしれないのに。
さらに言えば観光地化のための工事を請け負った人たちにも頭が下がる。こうした場所に資材を搬入するのも容易じゃなかっただろうし、設置の苦労も多かったのではないかと思う。
最上部では、登って来た通路とは別のホールから下を見下ろすことが出来る。はるか下方にさっき見た地底湖が見えた。こうしてみると結構登ってきている。
更に順路を進んでいくとやがて出口となった。
他にも数枚の写真を撮影しているのだが、どちらを向いて撮影した写真か分からなくなってしまった。何を写そうとしたものかも思い出せないので掲載は省略。
日本三大鍾乳洞の名はダテではなかった。思った以上に見ごたえのある洞内でとても満足できた。ちゃんとデジカメを持参しなかったことが悔やまれる。
出口を出たら龍泉新洞なる洞窟を案内する看板を見つけた。県道の道向かいにあるらしい。こちらも見学できるというので見に行ってみることにした。
こちらの洞窟は昭和40年代に道路工事をしている時に発見された洞窟だそうだ。洞内からは土器などが多く出土し、かつてここで生活をしていた人がいたらしいことが分かっている。
洞内はそうした出土品などを展示する場所として公開しているらしく歩ける通路は短め。出土品の他、手つかずの鍾乳石などもあり、この鍾乳石の成長スピードを継続調査していると書かれていた。
鍾乳石は10年で1mm程度の成長速度と言われている。なので、鍾乳石の大きさから逆算することで、いつごろから形成が始まったのかを知ることが出来る。
様々な展示物があったが、撮影禁止と明記されていたので写真は撮影していない。15分ほどで一通り見終えることが出来るくらいの展示館であった。