岩手へ【3】(2006/03/17)
気が付けば昼を回っていた。そろそろどこかで昼食を取りたいところだが、いかんせん店がない。困ったな、と思いつつ車を走らせていくと、道の駅いわいずみ があった。道の駅の少し手前から路肩に当地のブランド牛である岩手短角牛をおススメするのぼりがはためいていて、道の駅のレストランで食べられるというのを見ていたので、ここで昼食をとることに。
岩手短角牛というのは初めて聞く品種である。迷わず短角牛のステーキを注文。身が柔らかくてとても美味かった。
昼食後、更に道を進んでいくとやがて三陸鉄道北リアス線をくぐる。付近に小本駅があったのでちょっと立ち寄って入場券を購入。
田老の防潮堤:
それからほどなく国道45号線へと出る。この国道は陸前浜海道とも呼ばれ、宮城~青森の間の沿岸部を縫うようにして結んでいる国道だ。
この国道を右に曲がって宮古市方向へと進む。
途中見晴台を兼ねた駐車スペースに車を停めて小休止。目前に遥かなる海原である太平洋が広がっていた。山越えの時はひたすらどんよりとした天気だったが、海岸まで降りてきたらピーカンの晴天だ。小春日和と言ってもよいような穏やかな陽気に気分も明るくなる。
さらに進むと宮古市田老地区へと入る。平成の大合併の前まで田老町と言う独立した自治体だったが、現在は宮古市に吸収合併されている。
この田老地区には、津波防災で世界的に有名な田老の防潮堤と言うものがある(あった)。
田老地区は入り江に面した小平地に街が広がっている。そうした場所は津波の波高が高くなりやすい傾向があり、かつて明治、 昭和の両三陸地震の際は襲来した津波によって壊滅的な被害を受けている。
町は2度とこのような惨事に見舞われることのないよう、1984年に町内の沿岸部を全て10mの防潮堤で取り囲んでしまった。
建設当初は賛否が分かれたが、後に発生したチリ地震による津波では町内への浸水を防ぐことに成功し、これが世界的に知れわたって今では世界中から視察団が見学に訪れるほどの場所となった。
自分がこの防潮堤の存在を知ったのは小学生の頃だったが、それ以来その防潮堤を一度この目で見てみたいと思っていたのだった。
田老の街から沿岸方向へ進むこと数分で、そそり立つような巨大な壁が見えてきた。これが田老の防潮堤である。噂には聞いていたが実物を見るとその巨大さに息を飲む。まるで刑務所の壁だ。絶対に越えられないやつ。これだけの壁があれば確かにどんな津波が来ても大丈夫そうだな、と思った。
この巨大な防潮堤のせいで、田老の街中から海を見ることはできない。海沿いの集落であるにもかかわらず海の様子が見られないというのは、観光などの面ではデメリットとなりかねない部分だが、それよりも津波の心配をせずに暮らしていけることの方がこの地においてはメリットだったわけだ。
だが、盤石であるかのように思われたこの防潮堤も、3.11には太刀打ちできなかった。
Googleのストリートビューに上と同じ場所の水門と思われるものがあったので拝借。
ご覧のとおり見るも無残な姿になってしまった。
津波の襲来当初は、この防潮堤が押し寄せる津波を食い止めていたそうだ。だが、3.11の津波はこの巨大な防潮堤をもってしても防ぎきることはできず、防潮堤のてっぺんを乗り越えて集落方面へ水があふれだした。
このことは他の地域とは異なる2つの被害をもたらした。ひとつはあふれた海水が防潮堤の高さと等しい10mの高さから流れ込んだこと、更にその威力によって防潮堤そのものを崩壊させてしまったことだ。
10mと言えばビルの3階相当の高さである。そんな高さから津波がナイアガラの滝よろしくコンクリート片を伴いながら一挙に流入したため、建物の破壊を加速させてしまった。
もうひとつは、この防潮堤によって海の様子が見えず、更には防潮堤が津波を防いでくれるだろう、という過信もあって、住民の逃げ遅れに繋がったことだ。もし、海が見えていたら押し寄せる津波にもっと早いタイミングで気づくことができ、その分遠くへ逃げられた可能性もあった。
こうした巨大な防潮堤は田老地区だけの専売特許ではない。更に北に位置する普代村には、田老の防潮堤をも上回る15.5mもの高さの防潮堤が築かれている。こちらも防潮堤建設を巡って村内でも意見が割れたが、当時の村長が反対を押し切って建設を推し進め、田老の防潮堤と同じ1984年に完成している。
こちらは3.11の津波を防ぐことができ、建物や住民への被害をゼロに抑えることに成功した。
同じ防潮堤でも、その高さの違いによって明暗が分かれる結果となったが、もちろん、10mがダメで15mにしておけばOK、という話ではない。今後15mを越える津波が襲来しない保証はどこにもない。
三陸沿岸は繰り返し津波に襲われている。1896年には明治三陸地震で、1933年には昭和三陸地震で津波の被害を受けている。だが、いずれも既にずいぶん昔の地震であり、当時の被災者たちが後世に残そうとした伝承などはもはや怖さを伴わない形骸化した物になっていたのではないだろうか。
3・11以降、被害を受けた自治体の多くで、陸地を15m程度かさ上げする工事が行われている。今回これだけの津波が襲ってきたのだからそれ以上に陸地をかさ上げすれば次の被害は防げる、という前提でそうしているのだろうと思うが、それは田老の防潮堤の二の舞にはならないだろうか。
地震が発生したら速やかに高台に避難する、この地域で暮らし続けていく以上、それを未来永劫徹底すること以外に抜本的な回避方法はないような気がするのだがどうだろうか。
ちょっと話の内容が今回の旅のだいぶ未来に飛んでしまったが、話を旅行当時に戻す。地震や津波の話はアツくなりがちだが、今回の旅行はこれがメインではない。
いずれにしてもかねてから一度見てみたいと思っていたものが見られて満足であった。
時計はぼちぼち夕方の辺りを指していた。そろそろ盛岡に戻らなければ。
折角ここまで来たので、浄土ヶ浜などもう少し沿岸の観光地で散策したいと思うところがないではなかったが、今回はこれにてお開き。
宮古を経由して盛岡まで戻り、レンタカーを返却。
盛岡の叔父さんに挨拶:
叔母さんは盛岡から東北線で数駅の所にある町で暮らしている。数年前にこの地に引っ越してきているので、自分はその町のことは知らない。駅で降りるのも初めてである。
この叔母さん一家は一時期都内で暮らしていたことがあり、10年ほど前に遊びに来いと誘われて一度お邪魔したことがある。そのため他の岩手にいるみんなと比べたら比較的最近会っているのだが、それでも既に10年前の話なのでだいぶ間が開いてしまっている。
その間特に連絡も取っていなかったので、今回、久々の訪問で何を言われるか分からない。なんなら一頻り説教を受けることも甘んじなければならない。そう考えるとやや気が重かったが、ここまで来たら引き下がることも出来ないので覚悟を決めて家にお邪魔した。
リビングには叔父さんがいた。叔父さんは厳しい人で自分が子供の頃はちょっと怖いと思っていた。
真っ先に叔父さんに音沙汰なかったことをお詫び。それから背後に控えていたカミさんを2人に紹介した。
次の言葉がどんなものになるか、この瞬間が本日の緊張のピークだったが、特に温度感が上がることもなく我々の結婚を祝福してくれた。まずは胸をなでおろす。
それから夕食と言うことで食事がふるまわれたが、緊張のあまり何を食べたかはもう覚えていない。
叔父さんからビールを勧められた。自分は飲めないのだが、この時はもう勢いで行ってしまおうと思ってお酌をうけた。
今日はどこへ行ってきたのか、と聞かれたので龍泉洞を見てきたと話すと、あんなとこ(雪が多くて危ないから)冬に行くもんじゃない、と呆れられてしまった。
雪は幸いそれほどでもなかったけど、途中に氷結した湖があったと話したら、岩洞湖はワカサギ釣りで有名なところだから、今度一緒に行くべ、と誘われた。今だったら、明日連れてってください、くらいの勢いで食いつくところだが、当時はまだ釣りに目覚めていなかったので、折角のお誘いもありがたいような有難くないような。。。で、曖昧な返事をしてしまった。
それから少しして叔父さんたちの倅が帰宅。彼も東京で会っているが、当時彼はまだ高校生だった。それが今やサラリーマンである。大人にはなったが、あどけない雰囲気も残っている。まだ自分と比べたら若々しいが、みんな着実に年齢を重ねているのだな、と思わずにはいられなかった。