沖縄離島探訪【15】(2006/11/25)
帰路:
那覇へ戻る便は15:55発。今回の旅で3度目のRACのプロペラ便である。
カミさんがたまには窓側に乗りたいと言うので、窓側に乗るのであれば島々の写真撮影の義務が課せられるよ、と冗談を言ったら、それでもいいよというので、じゃあどうぞと窓側の席を明け渡した。カミさんだって窓の外の景色見たいよね。
それから程なく飛行機は離陸。久米島を後にした。
自分は景色が見られないせいか、はたまた旅の疲れが出ていたか、離陸したらほどなく眠ってしまい気が付いたら那覇に着陸していた。
飛行機を降りたらカミさんからカメラを渡された。見ると律儀に何枚か写真を撮ってくれていた。
まずは久米島のほぼ全景。南東側から北西側を見て撮影。
そして久米島の南東端あたり。岬のように突き出た部分の海岸沿いに我々が訪ねそびれた鳥の口があるらしいのだが、写真で見てもどれがそれかは分からなかった。奥の方にはオー島とオーハ島も見える。
渡名喜島。
座間味島。
渡嘉敷黒島。
拝島。読み方は「はいじま」ではなく「おがみじま」(のはず)。
中島と端島。
なにげに、いい感じに撮影できているじゃないの。
那覇に着いたのが16:30。そしてここから東京へ戻る便は20:15。なのでまだ4時間弱の時間がある。この時間を使って国際通りにお土産の買い出しに行くことにした。特別なお土産を渡すほどでもない職場の同僚や知人用の無難なお菓子とかお酒なんかを入手するためだ。
だが、無難なお土産を選ぶと言っても時間がかかってしまうのが我々である。あれにしようか、これにしようか、と悩んで複数の店舗を行ったり来たりしていたら、いつの間にか出発時間が迫っていた。結局なし崩し的に物を選んで慌てて空港へと戻る。
どうせ最後になし崩しになるんだったら最初から迷わなくてもいいような気もするが、そう言うセンチメントなんだろう。
20:15の便は那覇を飛び立つ最終便である。自分は飛行機に乗って耳抜きに失敗すると気圧差で耳が痛くなる体質なのだが、眠ってしまえば不思議とそうしたこともないので、長時間のフライトは出来るだけ寝ることにしている。
遅い時間なら充分疲れ切って離陸前にきっちり眠れるだろう、と踏んだことも最終便を選んだ理由だったりする。
読みどおり搭乗したら離陸前にはぐっすりだった。
そして気が付くともう羽田。長いようで短い旅はこうして幕を下ろした。
後日談:
はての浜で集めてきた貝殻だが、装飾用として加工するため、帰宅後に自宅の洗面器に水を浸して塩抜きをしておいた。
で、翌日仕事から帰宅したら洗面器の中からヤドカリが2匹顔を出していた。まだいたか。。。
というか久米島のホテルでも真水で塩抜きをしているし、久米島散策中は炎天下の車内に放置、その後2度に渡るフライトをやって、帰宅後に東京の水道水でダメ押しの塩抜き、とヤドカリにとって過酷すぎる環境が続いていた筈なのによくもまぁ生き残っていたものだ。貝の中に身を潜めていると案外防御力が高いのだろうか。
それはさておき、彼らをどう処分するか。生きているのにそのままゴミ箱に捨てるには行かないし、その辺に放流したら在来種を脅かすことになりかねない。そもそも海まで行くのが大変だ。仕方ないのでちょっと飼育してみることにした。
と言っても真剣に飼育したい訳でもないので、出来る範囲での処置だが。
家に余っていたアクリルケースに貝殻を並べて食塩を溶かした水で満たす。エサは家にあったワカメを放り込んだ。
これですぐ死ぬことはないと思うが心配なのは気温。東京の11月の終わりと言えば久米島と比べたら極寒の地である。だからと言ってヤドカリ2匹のために部屋の暖房をつけっぱなしにする訳にもいかないし、魚を飼うつもりがないのでこれ用に水槽や水中ヒーターを買うのも勿体ない。
とちらにしても長生きは出来ないだろうと思いながら飼育を開始した訳だが、結局3日目には2匹とも死んでしまった。
その理由が水質なのか水温なのか、はたまた餌なのか不明だが自分たちは出来ることをやったのだ、と思うしかない。まぁ東京の水が合わなかったのだろう。
で、その貝がらも加工したいのでヤドカリさんたちに退去願わないとならない。とりあえず箸でつまみながら引っ張り出そうとしたが意外と貝殻にしっかり体が固定されているらしく、するっと取り出せない。体が千切れたりしたら困るので少しずつ力を入れて行ったら、あるところでチュルンと抜けた。だがその下半身は妙につるんとしているうえにひん曲がっていて上半身のエビカニ然とした姿とは全然違うものだった。
これは殻が貝殻の中にひっかかって中身だけが出てしまったのだろうと思った。だがネットで調べてみたらこれが普通らしい。
余計なことしなきゃよかったかな。。。
あとがき:
と言うことで5泊6日の沖縄離島を巡る新婚旅行の模様をお伝えした。
全体的に自分の趣味が色濃く出た旅路だった気がするが、カミさんもそれなり楽しんだようだったので多分大丈夫。
2024年に記事のリライトを行ったのだが、その際文中の各種リンク先が死んでいないか再チェックしたら、ほとんどの所がリンク切れになっていた。単純にhttpかhttpsの違いのよるものやドメイン変更によるものもあったが、それ以上に廃業が目立った。そのほかにもオーナーチェンジによる名称変更などもあって、当時とは様相が大幅に変わっていることに愕然とした。
自分にとってこの旅行はまだそれほど昔のことだと思っていなかったのだが、よくよく考えたらもう17年も前の旅なのだ。10年ひと昔と言われる世の中なので、まぁ仕方ないよなという気もするが、一方で自分の思い出のかけらがどんどんと無くなっていくようなやるせない気持ちには一抹の寂しさを感じた。
思い出はどんどん風化するわけで、時が経てばこのように辿り直すこともままならなくなる。今この時の思い出話を新しく書き起こそうと思ったら情報が全然集められず難航していたと思う。そう考えると拙い文書ながら当時見聞きしたものを記録に残しておいてよかったな、と改めて認識したのだった。
(おわり)