一関遠征【1】(1990/07/29)
どこかに書いたと思うが、自分の両親は自分が小学3年生の時に離婚している。その際自分は父親に、弟はお袋に、それぞれ引き取られた。それは自分がお袋の実の子ではなかったからだった。そのお袋は実の子である弟をつれて岩手の実家に戻っていた。
離婚した当初はそうした事情を知らなかったので、たまにお袋と話がしたいな、と思うこともあったが、父から岩手とは連絡を取るなと言われていたので我慢していた。
数年後ひょんなことから自分がお袋の実子でないという事実を知ることになり、父が連絡を取るなと言っていた理由を理解するようになると、ますます連絡が取りづらくなってしまった。
この時期の父は仕事で月に何度か海外に出かけていて、その間は1人で留守番をしていた。
父がいない隙にお袋にこっそり連絡を取ってみようと思ったりもしたが、何年も連絡を取らずにいたのだから、今更電話がかかってきた所で、お袋も困るのではないかという気がした。
だが思春期の不安定な時期、色々悩みを持つようになってくると、日に日に連絡を取りたいという思いが強くなってくる。ある時、父が例によって出張に出かけた隙に、思い切って岩手に電話してみた。最初電話に出たのは誰だったかな、忘れてしまったが、それからお袋に代わって貰い、数年ぶりに会話をした。
その時に何の話をしたかはもう忘れてしまったが、かけるときにとにかく緊張したことを憶えている。でも、幸いにしてお袋は昔と変わらぬ雰囲気だったので、不安は程なく氷解した。
その後、同様にこっそり何度か岩手に電話をかけた。何度目かの電話の時に岩手に遊びに来るか?と言われた。行きたいのは山々だが、先立つものがない、と話したら交通費は出してくれるという。
父に内緒で行ってバレないだろうか、という一抹の不安もあったが、お袋や岩手の皆の顔が見たいという気持ちが勝って、思い切って決行することにした。
その日は父が再び海外に出かけた翌日の7月29日となった。
1990/07/29
岩手へ向かうには新幹線を使うのが一般的だが、当時は車両が200系ばかりで味気ないので、できれば違う手段で岩手に向かいたいと考えた。
それに交通費は出してくれると言われているものの、往復の新幹線代を出してもらうのは流石に気が引けたので、特急料金と寝台料金を自分の小遣いからねん出することにして、寝台列車で行くことにした。
当時は寝台列車はまだ全国で多数走っていた。東北・北海道方面への寝台列車の花形は北斗星であったが、自分はそれよりもぜひとも乗ってみたい列車があった。
それが583系である。
583系は寝台「電車」である。日本が高度経済成長を続けていた頃、昼間は特急電車、夜は寝台電車としてマルチに使える車両として登場した形式である。
形は当時の国鉄特急に類似しているが、帯の色がブルートレインに倣った濃い青色になっていて、寝台車両であることを主張していた。
既に東海道線系統からは運用がなくなっていたが、東北方面へは上野から青森まで東北本線経由で向かう「はくつる」と、常磐線経由でむかう「ゆうづる」の2つが583系で運行されていた。
常磐線はまだ通しで乗ったことがなかったので、あえてゆうづるのチケットを入手した。
これが自分の寝台列車初体験である。シブい所から入るなw
駅に着いて弁当などを買い込んでいたらホームに入線してきた。憧れのゴッパーサン!
583系は3段式寝台になっている。要は3段ベッドである。
3段ベッドなので個人のスペースはかなり窮屈だが、登場当時は現在のように移動手段の選択幅が少なかったので、とにかく大量にさばく必要から採用されたものだ。
寝台列車はその作り上、昼間は殆ど車庫で休んでいることになる。それでは勿体ないということで、昼間は寝台を畳んで座席特急の電車として使える設計としたのがこの583系の目玉だった。
朝から晩までオールマイティに使える電車として華々しくデビューしたこの車両が、既存の特急を置き換えることにならなかったのはご承知のとおり。経済成長が続き移動方法が多様化するなかで、3段寝台に押し込められての移動が敬遠されたことや、座席が向かい合わせな上、リクライニングが出来ない構造が、他の特急電車と比べて見劣りすることが仇となって、徐々に活躍の場が狭められていく結果となった。
上述のとおり、世間的には3段寝台の寝台列車は快適性に劣るためにあまり人気がなく、その後増備された客車は全て2段式寝台となっており、3段式寝台車は自分が乗車した当時でも、既に希少な車両となりつつあった。
そんな狭苦しい寝台にわざわざ好き好んで乗りに行くというのもちょっとどうかと思うが、なくなる前に一度くらいその窮屈さを経験しておきたいと思っていたところだったので、今回の一関へのお誘いはまさに渡りに船であった。
自分が手配したのは3段寝台の最上段である。何故最上段にしたのかというと、一番下の段はベッドは少し広めだが、その分寝台料金が少し高く、出来るだけ安く済ませたい、と言う方針から外れること、また、中段は上下に他の人が眠っており、その間に挟まれて寝るのがあまりぞっとしなかったことから消去法で選んだものだった。何とかと煙は高い所がとか言うな。
チケットに印刷された寝台の場所へ行き、梯子を登って自分の寝台に上がり込む。
上段の寝台は写真のような感じだ。当時のカメラでは引きでもこれが限界だったのであまり雰囲気が伝わらないかもしれないが、まず何といっても天井が低い。この高さでは上体を起こすことが出来ないので、終始ゴロ寝状態でいることを強制される。
写真に浴衣が写っているが、この浴衣も半ゴロ寝状態で着替えなければならない。これは面倒くさかった。
そのうえ窓がこれである。。。小窓。。。
外の景色なんかロクに見えない。自分にとって初めての夜行列車、何なら徹夜で景色を見続けることも辞さないつもりで乗車したのだがこれは誤算だった。外見を見れば分かるだろう、と言う気もするが。
これでは寝台に潜り込んだらもはやることがない。
ちなみに下段(これもひどい切り取り方だが。。。)はこんな感じ。窓が大きくベッドも広い。もう少し奮発して下段を選択した方が快適に過ごせた気がする。
そんなわけで寝台に潜り込んで早々に就寝した。