一関遠征【2】(1990/07/30~07/31)
1990/07/30
列車は5時過ぎくらいに一ノ関に到着。初の寝台列車の旅はお世辞にも快適とは言えないものだったが、またとない体験ができたので、これでも割と満足だった。
ちなみに一ノ関、市の正しい名前には「ノ」は入っていないのだが、JRの駅名はなぜか「ノ」が入る。
程なく迎えに来てくれたお袋と合流。対面するまでまたやや緊張したが、車に乗って少し走り出したころにはその緊張も解きほぐれた。
それから田舎の家に到着。数年ぶりに敷居をまたぐ折にまた緊張。緊張の連続である。
でも、ここでも緊張したのは最初だけだった。みんな昔と変わらず、自分の訪問を懐かしんでくれたので、すぐに打ち解けることが出来た。
挨拶と朝食を済ませたら、早速家の庭先を走る大船渡線の写真を撮りに行った。
かつて、ここに毎年のように遊びに来ていた頃は、貨物列車がこの線路を昼夜問わず通過していたのだが、自分はそれが嫌で仕方がなかった。
線路がもっと別の所を通ってたらいいのにと思ったものだが、鉄道ファンになった今では、ここに家を建てたじいちゃんに感謝である。ここから撮影できるのは自分だけである。これほどまでにベストなビューポイントがあるだろうか。
確か、かつての列車はディーゼルカーではなく、機関車がけん引する客車だったように記憶している。その頃に一枚でも写真を撮ってたら貴重な写真になったのだろうと思うが、その頃は家族の誰もが鉄道に全く興味を持っていなかったので、そういう写真は残っていない。
この日は午後に一関市の西の山あいにある真湯(しんゆ)温泉と言う所に連れて行って貰った。露天風呂のある静かな施設で久しぶりに弟と水入らずな会話を楽しんだ。弟はシャイな男なので自分がじいちゃんの家に到着した時は部屋に隠れてあまり降りてこなかったのだが、お風呂でなんということのない会話をしていたら、いつの間にか打ち解けていた。というか兄弟だろ、何の気づかいだw
温泉から戻ったら夕方近かったがまだ日が暮れるまで時間がある。すっかり打ち解けた弟が近所を案内してくれるというので、散歩のついでに大船渡線の真滝まで散歩に付き合って貰った。
この頃は切符集めにも精を出していたので、無人駅の真滝なら切符収集箱の周りに切符が落ちているんじゃないかと期待したのだが、あいにく、これと言った切符は落ちてなかった。
1990/07/31
この日は弟を連れて一関機関区(現:運輸区)の見学に出かけた。旅の出発前に電話をして見学可能であることを確認してある。車庫まではお袋の車で送ってもらった。
事務所に声をかけて見学の旨を伝えると、職員が出てきて案内してくれた。
当時のこのエリアのディーゼルカーは、概ね上の写真のような白に赤帯の塗分けだった。
が、車庫の中に少しいでたちが異なるキハ23が停まっていた。確か赤鬼塗装というニックネームだった気がする。
外には寒冷地向けキハ22が停まっていた。職員から車内も見ますか?と聞かれたので、喜んでお願いした。
車内に入って驚いた。床が板張りである。
あれ?キハ20シリーズの中で板張りの床の車両なんてあったかな、と思い調べてみたら、寒冷地向けのキハ22には、降雪時の滑り止め対策として、板張りの物が存在したらしい。
この時はまだキハ20も22も52も違いをよく分かっていなかったので、雑な見学になってしまったが、惜しいことをした。
ちなみに手前の座席に映りこんでいるジーンズの足は弟である。写真を撮りたいと言ったら気を利かせてシートに隠れてくれた。
しかし、弟は鉄道に全く興味がない。一緒に行きたいというので連れてきたのだが、飽きていないだろうか。。。
別の場所にはキハ28の300番台が急行色のままで停まっていた(形式は現地でちゃんと確認しなかったので多分)。
車体が薄汚れていて手入れがなされていないような感じだったが、職員の話によれば廃車予定とのことだった。
他のキハ28シリーズとは異なり、前面の窓ガラスがパノラミックウィンドウという曲面ガラスになっている。他と比べてそれほど古い車両には見えなかったが、中途半端に古くて更新対象から漏れてしまったのかもしれない。
見学はここまで。お礼を言って機関区を後にした。
その後、再び一ノ関駅に立ち寄ったら、ホームに719系が停まっていた。719系は当時の東北地方の最新鋭の電車。色も緑と白でフレッシュな雰囲気である。
それから再びお袋と合流し、駅前の商店街で昼食となった。確かマクドナルドかロッテリアだったような気がする。弟は当時小学4年生だったが、「ファッ●ユー」という言葉を憶えて、店内で連呼している。お袋はやめなさいと窘める。自分も一緒にいて恥ずかしいからやめて欲しい。
だが、弟は止まらない。昔からそういう奴だった。
そんなこんなで一関2日目が終わった。