修学旅行の思い出(1991/04/23~04/25)
中学校の修学旅行に行った時の話である。
旅行先は奈良と京都。これは当時の関東地方の公立中学校の修学旅行先として割とベタな訪問先だった。
我々の中学校のプランの場合、1日目は新幹線で京都まで行って、そこから奈良へと向かい、奈良観光のあと市内のホテルに宿泊。2日目は京都へ移動しつつ京都市内の観光をしたあとホテルに宿泊、3日目に帰宅、プランだった。
1日目の奈良観光は全体行動だが、2日目はホテルを出発後、京都観光をして京都市内の指定されたホテルまで向かう間の行動経路を、班単位で自由に決めてよいことになっていた。とはいっても、プランは事前に先生に提出してチェックを受けたような気がするが。
この自由行動プランは、当時の地元界隈の中学校では前例がなく斬新なものだと、当時の担任が豪語していたっけ。
自分が通っていた中学校は、どうにも手を付けられない不良連中がいるような学校だった。そうした連中がどうやって班を作って自由行動しつつ、ホテルまで向かったのかは、住むレイヤーが違う自分の知るところではないが、そうした連中を野に放ったらロクなことにならないような気がする。
にもかかわらずこうした行動様式で旅行することに決めたというのだから、確かに大英断だな、と思う。
自分が参加することになった班は、女子3人男子3人の6人のグループだった。2日目の自由行動について、どういう経路でどこを見て回るのか、事前に作戦会議を行った。
男子は揃って寺とか神社とか興味のない連中だったので、もっぱら女子が行きたい場所を考えて、男子が移動経路のプランニングをするという役割分担になった。
男子、と言っても京都の交通事情をある程度把握している奴なんて自分くらいしかいなかったので、プランニングはほぼ一任された。
それが嫌だったかと言えばさにあらず。自分の得意分野を活かせるまたとないチャンスだったので、時刻表や路線図と首ったけになって、女子が見て回りたいと言っているところを出来るだけ一筆書きで回れるようなプランを構築した。
もちろん、自分的にも寺や神社はどうでもよくて、一番やりたいことは京都の鉄道を堪能することなのだが、そんなこと誰も同意してくれる筈がないので、さりげなく組み込むことに。
結果、バス移動の方がが早く着けるところを、あえて鉄道路線に乗るような経路にしたりと、結構好き勝手なプランを作らせてもらった。
他のメンバーは土地勘がないので、それに異を唱える者もいなかった。
と言う訳で、自分プレゼンツのプランで京都市内を回ってきた話を書く。このカテゴリの記事なので、修学旅行の思い出、的なエピソードは一切ない、と言うかそういう部分はほぼ忘却の彼方だ。何しに行ったんだろうねw
ちなみに、この時は父が少し前に購入したキヤノンの一眼レフカメラを借りて持参した。
まだ使い慣れていなかったので、カメラの性能を活かした写真はあまり撮れなかったが、ズームレンズで遠くのものを間近に写したり、細かいパラメータ設定でその場に応じた最適な写真を写したりできるのが凄く楽しかった。
1991/04/23
ということで、早朝に学校に集合した後、東京駅へ。東京駅まではバスで移動したはず。
それから新幹線に乗る。当時自分が通っていた中学校は8クラスあって、総勢300名くらい生徒がいた。そこに引率の先生や関係者など含めたら、かなりの大所帯だ。
新幹線は修学旅行臨と呼ばれる団体列車があてがわれた。確か他の学校と共同で乗ったのかな。
車両はもちろん0系である。これは致し方ない所。
京都まで、友達と他愛のない会話も楽しむが、沿線の撮影にもいそしんだ。
とは言っても、ロクな写真は撮っていないので掲載は控える。
京都に着いたら、近鉄京都線に乗り換えて東寺、東大寺、法隆寺と超定番コースを回って宿に入った。
自分のクラスは比較的おとなしい連中が多かったので、夜はカードゲームなんかで盛り上がって割と平和に過ぎて行ったが、どうしようもない不良がいるクラスなどは、先生が夜通しで監視したりして結構大変だったらしい。
1991/04/24
2日目は奈良から京都まで自由行動をとりながら観光して回る、修学旅行のメインイベントの日である。ホテルを出発した我々の班は、まず近鉄奈良に向かった。
我々は、ここから京都までの切符を買って電車で移動するのだが、班によっては奈良界隈の寺や古墳へ向かったり、宇治の方へ向かったりする班もあった。
行ったこともない場所を自分たちが作成した計画に沿って行動するわけで、計画のツメが甘そうな班もチラホラ見受けられた。
見れば、切符売り場で既に戸惑っている連中もいる。近鉄の巨大な路線図を見て、自分ら下車する駅の場所が見つからないらしい。
無事目的地までの切符を入手出来て、ホームに向かったならば、今度は何行きの電車に乗ればよいのか迷っている連中がいる。
京都まで乗り通すならともかく、途中駅で下車しようと思ったら、何線の何行きのどの駅で降りる、まで把握してなければ戸惑うのも無理はない。
普通はそんなもんだよなと思いながら、スイスイと列車に乗り込んだ。ちょっとした優越感。だが、我が班とてどの電車に乗るかを把握しているのは自分だけなので、自分が責任をもってメンバー全員を滞りなくホテルまで案内しなければならない。
気分はツアーガイドだw
さて、京都駅に到着した。同行のメンバーに話して10分だけ撮影の時間を貰うことにした。
山陰線のホームに行ってみたら北近畿タンゴ鉄道(現:京都丹後鉄道)のタンゴエクスプローラーが停まっていた。いきなりレアな車両への遭遇にテンションが上がった。
経営の苦しい第三セクターが導入した車両とは思えないようなスマートかつゴージャスな車両である。
別の番線には特急あさしおが停まっていた。
当時キハ181はキハ82に比べたらまだまだ活躍の場があったので珍しいものでもなかったが、まだ撮影できていなかったので、無事Get。
自分がテンションを上げてホームをウロウロしていたら、メンバーの女子も、これなんか珍しいの?なんて言って写真を撮っていた。うむ、良い心がけであるw
この頃、信楽という町で世界陶芸祭というイベントが開催されていて、丁度そこへ旅客を運ぶための臨時列車がやってきた。
キハ58なのであまり興味はなかったが、ちょいレアな臨時列車なので撮影しておいた。
世界陶芸際と言えば、この修学旅行の数週間後に信楽高原鉄道線内で発生した列車正面衝突事故が記憶される。
四十数名の犠牲者が出た大惨事であったが、その時衝突した車両がキハ58だ。もしやと言う気もするが、この車両がそれかどうかは不明である。
その後地下鉄と阪急を乗り継いで大宮へ行き、そこから京福電気鉄道で太秦へ。
何故かこの時は搾りかシャッタースピードの設定が変わってしまったようで、それに気づかないまま写真を撮り続けていて、この先数枚の写真が夕方みたいに暗くなってしまった。
せっかくモボ100形とか撮ってるのに。。。
太秦で見たのは広隆寺。といっても写真はほとんど撮っていない。さらっと流していきたい。
広隆寺から北野白梅町まで北野線に乗って、北野天満宮を経由して、金閣寺まではバスで移動。
北野天満宮に向かう途中で雨が降り出した。傘を差しながらだと撮影がムズい。。。
雨にけぶる金閣寺は割ときれいに撮影できたが、松の枝がねー。
それから南禅寺に移動。ただ、どうやって移動したかは覚えていない。バスを使ったんだっけかな。
プリントされた写真は手元にあるのだが、鉄道が映っている写真しかアルバムに入れていなかったので、長い月日の間にどういう順番で回ったのか、とか、写っている寺がなんていう寺なのか、等よく分からなくなってしまった。
後年になってネガが発掘されたのだが、ネガはネガでコマを切断してエンベローブにしまい込んでいたので、コマ番号が飛び飛びになってしまっていた。恐らく写真の映っていないコマだとは思うのだが、バッサリカットして処分したりしていて、番号が大幅に飛んだりしてどこがどうつながるか判然としない。
自分の記憶を頼りに切れ端を繋ぎ合わせて、矛盾のなさそうなストーリーを再構築したが、それでも記憶違い等があるかもしれないし、建物の写真などは名前が間違っているかもしれない・・・まぁ、読者の皆さんには大した問題じゃないかwもし矛盾に気づかれたら、ご指摘いただけたら幸いだ。
で、南禅寺である。寺そのものは女子の後ろについて歩いていた男子同士ででワイワイやっていた記憶しかない。
ただ、琵琶湖疎水のレンガは橋脚はかっこいいな、と思って撮影していた。
確か当時、JR西日本のCMで谷村新司が歌う三都物語という曲をバックにここが出てきたような気がする。時期が違うかな?これも忘れた。
次に向かったのは清水寺。南禅寺から少し歩くと京阪京津線の蹴上付近に出ることが出来るので、そこまで歩いてこの電車に乗った。
80形。
当時の京津線はこの辺りが併用軌道となっていたので、路面を走るいい感じの写真が撮れた。
関東以北は路面電車が殆ど走っていない。なので、こういう風景はとても新鮮。ただ、停留所に立って次の電車を待っている時に、少し手を伸ばしただけで接触してしまうほどの目の前を列車が通過していくのはちょっと面食らった。
600形。
京津線には多分乗ったと思うのだが、どこで降りたのか、どういうルートで清水寺に行ったのかは忘れてしまった。
旅行計画中に女子がしきりに産寧坂に行きたい、と言うようなことを話していた記憶があるので、三条から五条まで京阪線に乗ってそこから歩いたのかもしれない。
清水寺では大定番の舞台の写真は全く撮っていないくせに、舞台から見下ろした音羽の滝は撮影していた。何だろうね、このひねくれ具合。
さて、つつがなくメンバーのみんなをアテンドして回った京都市内旅行もいよいよ佳境。あとは無事ホテルへと戻るだけだ。
宿泊先のホテルは、新京極のアーケードからほど近い所にあるので、最後に新京極でお土産購入タイム。
そこでのんびりしすぎて、学校から提示されたホテルの門限まで残り僅かになってしまい、最後はホテルまで全力で走った。
まぁともかく、無事ホテルに到着できた。
1991/04/25
後は帰宅するだけである。
京都駅で我々の乗る新幹線を待つ間、ちょいちょい列を乱して新幹線の撮影にいそしんだ。
丁度100系がやってきた。いいなー、あれで帰りたいなぁ。
もちろん、我々が乗車したのは0系である。
帰りは疲れもあってほとんど写真を撮っていない。友達とひたすらバカ話をして帰ってきた。
(おわり)