広島・高松遠征【6】(1991/05/05)
1991/05/05
こどもの日である。3日目。今日はゆるゆると名古屋方面へと向かって、締めくくりに寝台急行ちくまで長野へ向かうことになっている。
宿を出たら南海線に乗って難波に向かう。途中新今宮で降りて何枚か南海線の写真を撮った。
前回ある程度南海線の写真は撮影済なので、今回は数本だけ撮影して先に進む。
それから大阪環状線で大阪に向かった。
大阪ではトワイライトエクスプレスが停車中だった。
トワイライトエクスプレスは大阪と札幌を結ぶ寝台列車で、北斗星以上に豪華な客車が連結されていた。
最後部にはスイートと称する2人用の個室が置かれ、列車最後部からの展望が独り占めできることがウリだった。
昔読んだアダルトコミックで、このスイートに乗車したカップルが車内でイタしていたところを、ホームにいる乗客から覗かれる、というものがあった。最後部の展望はほしいままにできるが、逆に言えば覗かれるということだ。それを気にしてカーテンを閉めたら何も見えない。そう考えるとこの部屋に宿泊する人は、人から見られることに抵抗のない人でないと務まらない気がする。それでよかったのだろうか。
大阪界隈は今回はさらっと流して先に進む。次は京都で途中下車。
もちろん、例のミッションをこなすためだ。
駅前で何も考えずに一回だけシャッターを押した。修学旅行中に乗車したバスとは行先が違うが、そこは触れないで置いたw
そしてすぐさま駅に戻ったら、ボンネットタイプの489系による雷鳥がやってきた。
当時はこの車両が来ると、古いのが来たな。。。と少し残念な気分になったことを憶えている。
今は古い車両の良さを理解できるようになったが、当時は古ぼけた車両より、新しい車両の写真を撮る方が好きだった。
そのせいか構図が雑である。
そのくせ、東海道緩行線用の103系はしっかり狙って撮影している。特急車両より通勤電車の方が好きな変わった子供だったのだが、多分、I田に影響を受けたせいかもしれない。
それから米原まで進んで乗り換え。
今回は419系もオリジナルの先頭車両を従えた編成が停まっていた。
俺の人生、これでいいのか?と背中で哀愁を語っているようにも見える。
で、乗り換えて大垣で降りたのも前回同様。
樽見鉄道ホームに行くとオハ12形の客車列車が停車していた。
反対側はDE10形の樽見鉄道所有車である、TDE10形である。
この編成も珍しいものだが、見たいのはこれじゃないんだよなー。。。
一旦近鉄ホームへ移動。今は養老鉄道と名前を変えているが、当時は近鉄養老線だった。
ホームに停まっていたのは、420系のモ420形。
反対側はク550形。両端で少しデザインが異なっている。
これも当時は何の思い入れもなく撮影していたが、今では過去帳入りとなってしまった車両である。
こっちはこっちで、写真の列車の次は少し先だったので、再び樽見鉄道ホームに戻る。。。と。
いたー!
ハイモ180形である。この車両は見てのとおり半分バスである。鉄道車両は製作するのにとってもお金がかかるので、経営基盤に余裕のない地方私鉄では古くなった車両の置き換えが気軽に出来ない。そうした鉄道会社向けに、お金ないならないなりに簡素な車両作ればいいじゃん、どうせ閑散としたところを走るんだから、その程度で充分でしょ?と言うコンセプトで作られたのがこの車両を始めとしたレールバスと呼ばれる車両である。ここ樽見鉄道の他、北条鉄道や三木鉄道など、数社で導入された。
この車両はレールバスの中でもかなり初期に作られたもので、車体が小さい上に車輪も2軸しかない(大体の鉄道車両は4軸)。
だが、閑散としている路線が生き残っていられるのは、通勤通学輸送に需要が残っているからだったりする。その時間帯は大型車でも混雑する程度には乗客がいる。そうなるとこの小ぢんまりとした車両では捌ききれない。
それに鉄道車両はバスとは異なり、すぐに停まることが出来ない。結果、トラックや動物、倒木などとぶつかったりすることがままある。だが、この車両は簡素であるが故、そうしたトラブルに弱い。
画期的な思想の車両ではあったのだが、そういうデメリットが認識されたため、このタイプのレールバスはあまり広まらず、車体がもう一回り大きくて頑丈な後継車両に切り替わっていった。まぁ、そんなわけで、この車両もかなりレアなものなのである。それだけに一度実物を見たいと思っていたところなので、2度目の訪問で見られたのはラッキーだった。
JRのホームに戻ると165系の急行列車が入線してきた。列車名は忘れてしまったが、当時は東海道線を走る急行がまだ残っていたようである。