初めての韓国 (1989/08)

1989/08頃

以前、どこかの記事で父が新事業の展開のために海外へしょっちゅう出かけている、という話を書いたが、具体的に言うと香港や韓国などのアジア諸国で洋服などを作らせて、それをインポートして販売するという事業だった。

その打ち合わせや業者への発注のために、父は月に1、2回それらの国へと渡航していた。その出張中は自分にとって羽を大いに伸ばせる時間だったので、友達を呼んで遊んだりこっそりお袋に逢いに一関に出かけたりしていた。


この年の夏休みに、珍しく父から一緒に韓国に行かないか、と誘われた。

当時の自分は勘国という国を何となく薄汚くて雑然としている国、というイメージで捉えていた。韓国に限らず中国も香港も台湾も同じようなイメージだった。なので父からの誘いもあまり気乗りがしなかった。更に言えば、当時まだ飛行機というものに乗ったことがなかったので、なんとなく怖いイメージがあって乗りたくない、という思いもあった。

それは恐らく数年前の日航ジャンボ機墜落事故や、大韓航空機爆破事件といったニュースがまだ生々しく感じられた時期だったせいもある。

そんなわけで父からの誘いは遠慮した。それで諦めるかと思ったら、確かに韓国は日本と比べたら雑然としているけど、そういう雑然とした感じを味わうのがまたいいんじゃないか、とか、まぁ飛行機は慣れるしかないけど。なんて言って何度も説得してくる。当時父との2人暮らしだったので自分が寂しい思いをしているのではないか、と父が気遣ってくれているのだと思った。気遣いは有難いが行きたくないのだからしょうがない。


何度か断り続けたが、そうして何度も誘ってくるので結局断り切れずに出かけることになった。

ただし、元々あまり興味がなかったせいか、旅行に行った日や現地でどこへ行ったのか等について記憶がおぼろげだ。ただ、そんな中で一つ、忘れがたいエピソードがあった。それを書きたいがためだけにこのエントリを立てた。


初フライト:


成田からインチョン空港へ飛ぶ飛行機が自分にとっての初めての飛行機であった。
離陸するまで、ジェットコースターで一番最初の落下地点までじりじりと登り詰めている時のような、得も言われぬ不安感で一杯だった。

そして離陸。経験のない加速に驚き、機首を上げて離陸する時の角度にまた驚いた。本当にひっくり返って落ちるのではないか、と内心ハラハラしていた。


そして想像と全く違ったのが機内のエンジン音。こんなにずっとやかましいのか。安定飛行になったら静かになるものだとばかり思っていたので凄く意外だった。というのも、テレビドラマなどの機内のシーンでは、スチュワーデス(キャビンアテンダント)や乗客同士が日常会話のような音量で充分会話できるレベルに静かになるのを見ていたからだ。

もちろんそれは視聴者が会話を聞き取りやすくするための演出に過ぎないのだが、当時の自分はそれを知らなかった。考えてみりゃ飛行機がエンジンの推力を下げるわけにはいかないことくらい分かりそうなものなのにね。


驚いたと言えばヘッドフォンである。飛行機には機内に音楽や映画を聞く際に使うヘッドフォンが備え付けられている。ヘッドセット式の物だったりイヤフォンだったりと飛行機によってさまざまなのだが、初めて乗ったその機体のヘッドフォンはなんか聴診器みたいだった。耳当てに単なるゴムチューブのようなものが繋がっている。ひじ掛けにあるそのゴムチューブを接続する先を見ると穴が2つ開いている。だがゴムチューブだ。どう見ても電気信号が出ているようには見えない。どうなっているのだろうと観察している時に耳を近づけたら、その穴から小さく音が漏れていた。

なんと、ひじ掛けのジャック部分に小さなスピーカーが内蔵されていて、そこに聴診器のようなヘッドセットを接続して聞くようになっていたのだ。こんなの見たことがない。昔はこういうのが普通だったのだろうか。


初ソウル:


まぁそんなこんなでソウルに到着し、父が現地滞在中の世話をしているCさんという女性と合流した。

その後の行動はもはや写真から記憶を辿ることしかできないが、とりあえず南大門(ナンデムン)に行ったようだ。

19890800_510105

ここはのちに放火事件によって焼け落ちてしまうのだが、もちろん焼ける前の姿である。

19890800_510113

それから、ロッテワールドに行ったのかな。残っている写真がこの写真を含め数枚しかないのだが、何を撮影したくてシャッターを切ったのかさっぱり分からない構図の物ばかりなのである。なのでぶっちゃけこの写真もロッテワールドの写真なのかよく分かっていない。

19890800_510114

夜になって63(ユクサン)ビルに登った。そこで夕食を食べたんだったかな。何を食べたかは覚えていない。その折ビルの窓から南山タワーが綺麗に見えた。どうせならあっちに登ってみたかったなと思った。


食後にビル近くの川沿いの公園を散策した。屋台が点々と並んでいてよく分からないガラクタや衣料品などを売っていたような記憶がある。

飲み物が飲みたいな、と思ってジュースの自動販売機の所まで行くが、売られているものがハングルばかりでどんな飲み物でどんな味なのかさっぱり想像がつかない。

そんな中でポカリスエットだけはあのパッケージデザインと同じだったのですぐわかった。でもデザインはそれでも書かれている文字はやっぱりハングル。ものすごい違和感を感じた。なんかそういう些細なところで、あれ?と思う瞬間がちょこちょこあって、この感覚は結構面白いなと思った。


ふと一緒に歩いていたCさんが「ハットク食べる?」と聞いてきた。ハットク?それは何ですか?とCさんに聞き返すが、Cさんはハットクと繰り返すばかり。どういう食べ物なのかそのディティールを聞き出しているうちにホットドッグのことだと分かった。

その時はホットドッグなんて日本でも食べられるからいらないと答えた。食べておけばよかったかな。
確かに正しく発音したら「ハッドォグ」なので、ハットクの方がより原音に近い気がする。英語も日本訛りと韓国訛りでは違うのだな、と思った。

街の風景は何となく日本にもありそうな雰囲気を感じるのだが、近くで見ると全然違う。うまく言い表せないがやはり日本ではない所にいるのだな、と思わされることが多かった。ただ、訪韓前に漠然とイメージしていた薄汚い街並み、というのは違った。もちろん路地裏とかはちょっと小汚いなと感じる場所もあったが、そういう風景がどこへ行っても広がっているものと思っていただけに意外だった。

それからCさんの自宅へ行って、、、何したんだっけかな。何かしてそれからホテルに戻ったはずだ。


しれっと世話をしている女性、と書いたが、Cさんはまだ20代前半の人だった。日本語が堪能で父と彼女の会話や距離感から、仲がいいというよりは、お友達以上の関係になろうとしているのではないかという気がした。子連れに抵抗はなかったのか自分にも気さくに接してくれたので、自分の印象も悪くはなかった。


泊まったホテルはサヴォイホテルというビジネスホテルだった。建物は古臭いが居心地は悪くなかった。


ソウルの街で1人放り出され。。。:


さて、翌日である。

この日は父が朝から仕事で自分はホテルで留守番している予定だったのだが、昨晩Cさん宅から帰る時に、明日、仕事が終わったらまたCさんの家に行くから、時間になったらお前もホテルから出てきてくれ、と言われた。

ちょっと待って!出てこいって、行き方も住所も分からないのにどうやって?と聞くと、Cさんの家まではホテルからバスで乗ればすぐだ、という。
確か、バスの行き先には系統番号が書かれていて、それの何番に乗って、何ウォン払えばよい、と言ったアドバイスを貰った気がする。
いやいや。何の予行練習もないまま言葉も分からない地に中学生を放り出すか、普通。


バスに乗れなんて簡単に言うけど、大都市ソウルの中心街だぞ。系統番号だけを頼りにひっきりなしに走ってくるバスに間違わずに乗れるものなのか。中野に住んでいた頃、新宿や渋谷に行くバスは様々な経由地を通るものが何系統も走っていた。ソウルのバスがそうではない保証はどこにもない。

考えれば考えるほど不安しかない。だが父はそういうことをあまり不安と感じない気質の人なので、お前ならできる、やってみろ、と太鼓判を押されてしまった。それでできないとは(自分のプライドもあって)言いづらい雰囲気になってしまい、渋々チャレンジしてみることにした。


降りるバス停は麻浦警察署というバス停だそうだ。韓国読みでは「マッポキョンチェルソ」というらしい。

事前に受けたレクチャーに従い、ホテルから大通りに出て指定の番号のバスを探す。数字は読めるが行先はハングルなので読めない。本当に合っているのか不安で仕方なかったが、ままよ、という気持ちで飛び乗った。バスは走り出した。


日本国内だったら地図を見ればある程度土地鑑が出てくるので、目指す方角へ向かっていることくらいは何となく分かる。だが、ソウルの街の土地鑑はゼロである。だからこのバスが目指す方向へ走っているかすら分からない。

おまけに車内放送で流れるアナウンスが全く分からない。言葉が分からないのはもちろんだが、暑い時期だったので車内の窓ガラスが全開で、何を言っているのか聞き取れないのだ。

路線図っぽいものは掲示されていたが、そこに書かれている文字もひたすらハングルなのでこれも全く読めない。この状況で違う方向へ行くバスに乗ってしまったとしたらもはや詰みである。

とにかく周りの景色をひたすら注視しつつ、アナウンスに聞き耳を立てるしかない。キーワード的にでも聞こえたら降車ボタンを押そうと思った。

だが、どんなに頑張っても何を言っているのか、キーワードになるような単語すら聞き取れなかった。後は景色の記憶だけが頼りだが、昨日Cさんの家を訪ねたのは夜だったので、街並みも夜の風景しか見ていない。


とにかく不安だった。了解しなければよかった、と激しく後悔した。
バスはどんどん進んで、気が付いたら昨日何度か渡った漢江(ハンガン)にかかる橋を渡り始めた。

その時で方向的に正しい方向へ進んでいることが分かると同時に、行き過ぎていることに気づいた。川の向こう側ではないことは覚えていたのだ。慌てて降車ボタンを押した。

橋を渡り切ってちょっと進んだ所にあるバス停でバスが止まったので、とりあえず下車した。


さて、ここはどこだ!?
今なら携帯で現在地さえ伝えられればナビゲートして貰うこともできるが、当時はそんなものはない。

どうしたかというと、とりあえず来た方向へ戻った。少なくとも川を渡らなかったことは覚えているので、川の向こうまで戻れば手がかりを見つけられるのではないかと思ったのだ。

もちろん、橋を戻ることが正解である根拠は全くない。そもそも違う橋を渡っている可能性だってある。だが誰にも聞けないのだ。信じられるのは自分の野生の勘だけである。その勘がなまくらだったら事態が更に悪化しかねない。


不安な気持ちに押しつぶされそうになりながら橋を反対岸まで戻った。そこから少し進んだら、道路の看板に漢字で「麻浦警察署」と掲げられているのが見えた。

あったー!!
もう安堵、ひたすら安堵だった。

その看板は見覚えがあった。看板が見えたらCさんの家までの道順も分かる。無事家までたどり着いた時には心の中でガッツポーズをした。


ということで、中学1年生のプチ大冒険はこうして幕を下ろした。繰り返すがもう安堵。ただひたすら安堵だった。

自分の脳みそはそこがクライマックスだったようで、そのあとCさんの家で何をして過ごしたのか、とかどうやって帰ったのか、とかいつ帰国したのか、と言ったことが全く記憶にない。


あとがきっぽい物:


余談だが我々が帰国して数か月後に、今度はCさんが我が家にやってきた。

我が家で一頻りのんびりと過ごしたんだっけかな。たが、ゆっくりしていきなさい、という父に、シンノークに知り合いがいるからそこに行く、と言って翌日くらいにはそのシンノークの知り合いの元へ出発していった。ちなみにシンノークとは新大久保のことだった。あの辺は当時から韓国人が多かったのだな。

出発する前に象印のポットをプレゼントとして彼女に持たせていた。なんでも韓国では象印のポットがお土産として喜ばれているとのことだ。意外なものが人気なんだな、と思った。

それはともかく。我が家に滞在中父がしきりにCさんの事を誉めそやしていたのを憶えている。その様子から、もしかしたら父はこの人との結婚も視野に入れているのかもしれない、と思った。

たが、残念ながらその願いは成就しなかったようだ。もちろん後日談を聞いた訳ではないし、そのつもりがあったか聞いた訳でもないので、状況からの推測に過ぎない。ただ彼女が帰国して以降、我が家の会話に彼女の話が出ることはなかったので、何かがうまくいかなかったことは間違いない。


当時、韓国は日夜目覚ましい成長を続けていたが、日本からはまだ格下の国として扱われることが多かった気がする。とは言っても反日、嫌韓のようなお互いのナショナリズムをぶつけ合うようなギスギスした関係ではなかった印象だ。

もちろん、戦争を経験した年配の人たちの中には否定的な捉え方をする人も多かったのだろうと思うが、少なくとも自分の身の回りにおいてそういう風潮はなく、というか言っちゃなんだが韓国は眼中にない国、という感じだった。

父は戦後の人間だったが、やはりアジア諸国の人たちを格下に見る傾向はあったように思う。案外そういう部分の見解の相違を埋められなかったのかもしれない。


それはさておき、自分の中の位置づけはそんな感じだったので、仮に彼女が我が家の一員となったらそれはそれで面白そうだな、とは思った。まぁ、年が近いお母さんとどう折り合いをつけて行くのかは全く想像が及ばないが。少なくとも、住まいで振り返る~の記事に華を添えるエピソードにはなったかもしれないなとは思う。

まぁ、仮定の話を膨らませてもしょうがないので、この辺で。


(おわり)

Posted by gen_charly