小笠原上陸【17】(2008/09/14)

母島散策 - 北村集落跡:


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こちらは今しがた水遊びを堪能した北港の風景である。ご覧のとおりとても波穏やかな入り江である。

先ほど山越えをした後、谷間をまっすぐに突っ切る道を走ってきたのだが、戦前までここには集落があって北村と呼ばれていた。450人前後が暮らしていたというので今の沖村と同じような規模の集落があったことになる。当時はここから東京までの直行便の設定もあってそこそこ繁栄していたようだ。

だが戦時中に疎開が強制されたことで、父島と母島の全島民は一旦島を離れることになった。
そして日本は敗戦し、沖縄、奄美とともに小笠原諸島も米軍の占領下に置かれたため帰島が出来なくなってしまった。

占領期間は23年間にもおよび、昭和43年にようやく日本の領土に復帰したが北村の人たちはあまり戻ってこなかった。散発的に集落へ戻ってきた人たちもいたようだが、定着せずやがて無人化。その後現在に至るまで廃村状態となっている。

それゆえこの辺りに北村という地名こそ残っているものの住民はおらず、集落跡としてその名残を僅かに留めている。

残念ながら集落があった当時を偲ばせる物は殆ど残っていないのだが、その中のひとつが上の桟橋である。コンクリートで作られているので未だに形を残しているが、かなり風化が進んでボロボロになっていて沖の方はだいぶ崩れてしまっている。当時はここと東京を結ぶ船が発着していたと言うことだが、黒潮を乗り越えてやってくる船が接岸するにはちょっと小さすぎる気がするし深さもない。恐らく沖合で艀に乗り換えていたのではないかと思う。

 

この北村集落跡はネットなどにもよく紹介されているので母島について調べたことがある人は一度は目にしているのではないかと思うが、それらに掲載された写真はなぜか曇天だったり日が傾いた時間帯だったりして全体的に寒々しい印象のものが多い。多分廃村であるというバックグラウンドにも影響されている気がする。

そんな寂しい場所へ足を踏み入れることに少しためらいがあったのだが、いざ現地に立ってみたら明るい日差しが降り注ぐ波の穏やかな長閑な海岸が広がっていて先入観を大いに裏切られた。

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北進線の突き当たりに左へ枝分かれする遊歩道が延びているのが見えた。看板も出ていて進んだ先には大沢海岸という海岸があるようだ。

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その遊歩道の入口に橋が架かっていた。10mほどの小さなコンクリート製の橋だが、その造りはクラシカルでコンクリートは角が取れて丸くなっている。恐らくここに集落が健在だった頃から存在している物だと思う。これも集落の名残のひとつである。

当時は遊歩道ではなく日常生活において必要な道だったのだろう。実際、地理院地図でこの辺りを見ると衣舘西台と言った地名が書かれている。地名が付いているということはこの奥にも集落ないしは人家があった時代があったのかもしれない。ちょっと行ってみたい気もしたのだが、大沢海岸まで1.3キロほどあるらしく、我々はそれを往復する時間がなかったので立ち入りはしなかった。

恐らく南崎遊歩道のようなよく整備された道が続いているのだろう。なにせ都が管理している道なのだ。

 

さて、ここから旧北村集落のメインストリートを抜けて再び山の向こう側へ戻ることにしよう。
観光ガイドなどでも北村集落跡は母島の観光名所として必ず登場する場所だが、前述のとおり集落があった当時の名残を留める物は殆ど残っていない。まっすぐの道は集落を作り始める前に目抜き通りとして整備されたであろうことが想像できるが、その両脇はもう森に帰ってしまっている。

 

母島散策 - 北村小学校跡:


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そうした中で当時の痕跡を留める物のひとつがこの北村小学校跡である。看板が出ているので見逃すことはないと思うが、集落のメインストリートとなる都道の脇にある。

学校への入口には石垣と階段があり、ここに何かがあったのだろうことはすぐに分かるが、ご覧のとおり敷地は生い茂る藪に埋もれていて建物なども残っていないので当時の痕跡を見出すことは困難だ。

階段を上がってすぐの所に丸い石が積み上げられている。校門の門柱だろうか。

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階段を登って藪の奥の方へ少し入った辺りに長方形のコンクリートを積み上げたようなものがあった。角が切り落とされている所を見ると階段的な物のように見えるが校舎への入口だろうか、あるいは朝礼台のようなものだったのかも知れない。

当時の写真を見ると校舎の建物はずっと奥まった所にあったようなので、それなりに藪を漕がないとならなさそうだったが、旺盛すぎる繁茂にたじろいでしまい奥の方まで立ち入ってみようという気にならなかった。

下草の少ない所をちょっとウロウロしただけだったが、これ以外の遺構は見つけられなかった。
ここで学んでいた子供たちのことが追想できるようなものがあれば嬉しかったが、他の人がレポートしていない所を見ると本当に何もないのだろう。

ということで北村集落跡の散策はこれにて終了。ここ以外の場所は本当に集落があったのだろうかと思うほどに藪だらけだった。当時の建物はオガサワラビロウを葺いた家屋だったようなので、恐らく米軍が片付けてしまったのだろう。

 

母島散策 - 東港:


集落跡の直線区間を過ぎると間もなく分岐があり、手前の看板には左折した先は東港と書かれている。こんなひと気のない所にある港はどんなものだろうかと思い、ちょっと見に行ってみることにした。

坂道を下ること100mほどで突然視界が開けた。

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そこにあったのは大層立派な近代的な港湾施設だった。堤防がずっと向こうまで続いていて、ははじま丸くらいの船舶なら充分停泊できそうなほどの広さがある。

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手前には船揚場もあるのだが、これまたかなり大きな漁船でも引き上げられそうなほどの大きなスロープになっている。

船揚場がある所からしても漁港としての利用を想定しているように見えるが、その割に漁港につきものの集荷場や加工場のような建物は一切ないし、漁船も係留されていない(船揚場にはボートが置かれていたがひっくり返されているので普段使いはしていないと思われる)。つまり利用されている形跡が全くないのだ。

そもそも前述のとおりこの辺りは無人地帯で沖村の集落からたっぷり30分はかかる場所である。こんな所に漁業基地を作った所で島の漁業関係者からしても不便極まりないだろう。東京都らしいハコモノ行政の賜物かと思いつつその実態が不明だったので首をかしげながらその場を後にした。

 

その答えは後に立ち寄った観光協会で配布していたガイドマップによって判明した。この港は捕鯨基地とするために昭和56年に開港したのだそうだ。捕鯨船が寄港するからこんなに立派なのか。
だが昭和60年には利用が中止されてしまったらしい。これだけの物を作ったのに僅か4年しか使われていないということか。なんと勿体ない。商業捕鯨への風当たりが強くなったのがそのくらいの時期だったのだろうか。

Posted by gen_charly