岡山出張【8】(2023/09/17)
園内散策 - 新良田教室:
まずは園の東端にある新良田教室(にいらだきょうしつ)の跡地を見に行ってみよう。
歴史館に置かれていた長島愛生園歴史回廊というパンフレットに園内マップおよび見学ルートが記載されていたので、それを参照しながら散策することにした。と言っても園内の散策について誰にも許可を得ていない。マップが配布されているのだから基本的には見学可能なはずだが、入口看板で目にした関係者以外立入禁止の文言が気になっている。緊急事態宣言が発令された当時はあちこちの施設が公開中止の措置を取ったが、コロナ禍が下火になった今も再開していない施設がまだあちこちにある。ここももしかしたらまだ再開していない可能性があるのだ。
とはいえ、Webサイトにも歴史観にも園内見学を制限する文言は特に書かれていなかったので多分大丈夫だろう。まあ、もし咎められたら素直にごめんなさいして立ち去れば大事には至らないだろう。
・・・みたいな事を頭の中でぐるぐる考えた末、散策に繰り出してみることにした。とは言ってもやっぱり誰かに咎められるのは出来れば避けたい。誰とも会わないようにと念じながら歩き出した。
歴史館へ続く道の手前で右に分岐する海沿いの道を進んで行く。
まず最初に見えてくるのが総合案内 さざなみハウスと書かれた建物。総合案内と言うことはまずここから訪れるべきだったか。さっき歴史館であらましについてひととおり学んだのでここは立ち寄らなかった。
先ほど誰とも会わないようにと念じていたからというのもあるが、ここで中にいる人に見学の可否を尋ねた結果拒否されたらやっぱりがっかりしそうな気がしたからでもある。考え方が臆病なのか姑息なのか自分でもよく分からない。
ちなみにさざなみハウスと言うのは喫茶室だそうだ。
その隣に建っているのが老人クラブの建物。わざわざ看板を出しているのは見学者を意識してのことだろうか。
看板の左に見える細い鉄柱にくくり付けられた物体はスピーカーである。ここからラジオ番組が流れていた。視覚障害を持つ入所者への案内用らしい。
その少し先の海岸に壊れかかった桟橋が突き出していた。ここは未だ手付かずだった島を開拓するための患者を乗せた船が着いた場所だという。そう、島を開拓したのもまた患者だったのだ。入所者によって島が切り拓かれ、居住用の建物が建設され、そして重症者の世話をするのも子どもたちに学業を教えるのもまた入所者だったそうだ。
そこから背後を振り返ると入所者の居住地区がある。なんかどこかの大きな工場の中みたいだ。頭上の配管のせいだろうか。奥の方も見に行きたいがちょっと後に回そう。
奥に見える白い洋風建築は愛生会館、その奥が曙教会だそうだ。こうして看板が出ているので非常にわかりやすい。
自分の進路はこのまま真っすぐ。丘の上へと登っていく道を進む。
この道は一朗道と名付けられ石碑が建立されている。2車線幅の立派な道路だがご覧のとおり通行する車は全くない。
道を歩いている間、ずっとどこかのスピーカーからラジオの音が聞こえていた。
更に進んでいくと道は1車線の幅に狭まった。そしてまた分岐が現れた。園内にはあちこちにスピーカーが設置されている。よく聞いてみると流れている番組はスピーカーによってまちまちだった。
道を説明する時に、ここのラジオ局の放送が聞こえたらその道を~、なんていう具合にやっているのかもしれない。新良田学校は奥の分岐を右に進む。
しかし道が非常に綺麗に整備されている。舗装は敷かれたばかりのように綺麗だし、路肩のガードパイプには錆も歪みのひとつもない。斜面の雑草も綺麗に手入れされている。なのに誰ともすれ違わない違和感。許可を取らずに立ち入っているので誰にも会わない方が嬉しいと言えば嬉しいのだが、全くいないというのはそれはそれで奇妙な感じがする。
普段の散歩などでこんな綺麗に整備された道を歩いたら快適だと思うが、今はむしろ非現実的な感じがする。CGか何かの世界に入り込んでしまったような気になりながら道を進んでいく。
丘を越えると開けた場所に出た。入所者の農園らしい。農園に沿って左へ伸びる路地があったのでちょっと寄り道をしてみることに。と言っても農園を挟んだ山側の道を通れば新良田教室の方へ抜けられることは確認している。
その山側の小径に出るとすぐ、裏手にある相愛の磯方面へ向かう道が分岐する。この道は遊歩道のようになっていて、案内看板にもハイキングコース風に道が描かれているのだが、その先の道は木立に隠れて様子が窺えなかったので行くのはやめておいた。
そしてそこからもうひとしきり進むと新良田教室跡地に出た。学校の校門の前に10人ぐらいの人だかりが見えた。関係者かもしれない。1人でフラフラしている自分に誰何してくるのではないかと少し身構えたが、近づいていくと彼らもまた見学者だった。
なるほど、そういうことか。この団体の対応があったので歴史館の職員が不在だったという訳だ。
軽く会釈をして脇をすり抜けるようにして校門の奥へと進んだ。とりあえず誰何されることもなく通り抜けられたので一安心。
すり抜けざまにその団体にチラリと目をやったら入所者と思しき老人の姿が見えた。語り部付きのツアーであるらしい。語り部の話は聞いてみたいところだ。予約せずに訪問したことをちょっと後悔した。
新良田教室は昭和30年に開設された邑久高等学校の分校である。ただ気になるのは学校名が「分校」ではなく「教室」であることだ。もちろん俗称ではない。教室と名の付く学校施設というのはあまり聞き慣れないが、使い分けているのであれば何らかの制度の違いがあるはずだ。
ところが少し調べてみた限り、現状「教室」を名乗る施設がないせいかこれと言った情報が得られなかった。ひとつ見つけたのはこちらのサイトである。ここの例に当てはまるか不明だが分校と分教室の違いについて書かれていた。以下抜粋。
一見同じように思えるが、分教室と分校は大きく違う。分校の場合は、そこに在籍する生徒に対し教職員が配置される。 事務職員もいるし、管理職もいる。一方、分教室の生徒は本校の生徒と一緒にカウントされ、教職員の定数も学校全体でカウントされる。分教室に何人配置するかはその学校の判断である。この方が教員が少なくて済むし、事務職員や管理職もいらない。
こちらで説明されているのは分教室についてなので教室とは異なる可能性があるが、状況的には恐らく上記の説明が近いのではないかと思う。
かつてこの島に収容された子どもたちは満足な教育を受けることが出来なかった。新良田教室が開校する前にも教室らしきものはあったが、そこで教鞭をとるのもまた入所者だったという。そうした中、人間回復を目指し高等教育を受ける機会を得たい入所者たちによって陳情が行われた結果開校したのが新良田教室である。ここで教鞭をとるのは入所者ではなく外部から赴任してきた専任の教師であったため、これまでにない高等教育を受けることが可能となった。
一方で教員に正しいハンセン病の知識が共有されていたとは言い難く、入所者は職員室への立入を禁じられ、教師と会話する場合は入口の前に設置してあるベルを鳴らして教師を呼び出す必要があった。また教師に物を渡す場合事前に消毒液で手を洗い、持参物についても消毒を行うことを強制された。
元生徒の語りによると、それだけ厳格な隔離を行っていたにも関わらず教室では生徒と一緒の空間で普通に教鞭をとっていたらしい。入所者はそうした矛盾に敏感に気付いたわけだが、教員はそんな初歩的な矛盾にも気がつかなかったのだろうか。
教員や施設の職員がこの島へ赴任することが決まると身内や知り合いから大反対されたそうだ。当時の世相からすればそれが当然の反応だと思うし、もちろん断ることも不可能ではなかったはずだが、それでも断らずにここへ赴任してきたのだからそれなりに信念や義侠心を持っていたのかもしれない。
世の中には様々な情報がある。相反する情報に接してどちらを取る判断を下すかはその人次第だが、その選択を100%信じ切るのは簡単なことではない。大抵の場合、大丈夫だと思うけどもしかしたら、みたいな葛藤と隣り合わせになっているはずだ。恐らく島に赴任してきた職員、教員たちも大丈夫だと言い聞かせつつ万が一を疑った結果、そのようなちぐはぐな対応を取っていたのかもしれない。
ここには校舎の一部が残っていた。既に窓などは塞がれていて中の様子を伺うことが出来なかった。
校門に近い所に石碑が建っていた。写真に撮ろうと近づいたら校門の外で語り部の話を聞いていた人の1人が自分の元に駆け寄ってきた。
近寄ってはならないと咎められるのか、はたまた誰何を問われるのだろうかと少し身構えたが、その方が言うにはこの近くで大きな蜂が出ているので近寄らないでくれと言うことだった。だからポールが立てられていたのか。
忠告感謝である。知らずに刺されていたら大変なことになる。