岩手の地震の爪跡を訪ねて - 11(2011/05/03)
— 陸前高田-2 —
行ってみよう、と車を走らせたのは良いのですが、少し前に書いたとおり、気仙川を渡る橋は、気仙大橋、姉歯橋が共に流失してしまっているので、どこまで行けば対岸に渡れる橋が残っているのか分からないまま上流方向に進んでいきました。
さっき折り返した地点も通過し、更に上流へ進むと、大船渡線の落橋した鉄橋が見え、 そこの少し先に車が通行している橋が見えました。
国道343号(今泉街道)の廻舘橋は渡れるようです。
途中から343号に抜けるショートカットを見つけたので、そこを通り国道に合流。
橋を渡ると、国道340号に出ます。
橋の欄干には瓦礫が引っかかったまま残っていて、少なくともここまでは橋の高さよりも高いところまで水が来ていた事が分かります。
橋の山側に目を向けると、はるか奥の方まで瓦礫が散乱していて、一体どこまで遡って行ったのか見当も付きません。。。
ここから河口までの距離を測ると4キロ以上ありました。
色々なものを巻き込みながらここまで巨大な水の塊が押し寄せてきたのかと思うと、本当にぞっとします。
橋の先にある交差点の少し手前から数台の車が連なっていてちょっとした渋滞が発生していました。
従弟いわく、
「ここの信号がなくなっちゃったから渋滞していたみたいだね。」
確かに国道が交わる交差点なのに信号がないのが不思議だと思っていましたが、これも流されてしまったんですね。。。
両側から来る車に注意しながら交差点に進入しなければならないので確かに慎重に進む必要があります。
タイミングを見計らって無事合流。
対向車線は数珠繋ぎに1キロほど渋滞していましたが、こちら側の車線は渋滞しているところは無くスムーズに市内まで来ることが出来ました。
走行する車から写したのでブレてしまいましたが、陸前高田の中心街の方を写した写真。Maiya(マイヤ) の看板が色彩を失った街のなかでひときわ強いコントラストを放っていました。
道の途中には空き地に収集された瓦礫や車が2~3mの高さに積まれて仮置きされていました。
県立高田病院。
ここの病院も津波が4Fの高さまで押し寄せたと言うことです。
スタッフの懸命な救助作業によって、多くの患者を屋上まで上げたそうですが、一部の患者は流されてしまい、また屋上に避難させた患者の中には体力が尽きたり、ショックを起こしたりして、数名の方が亡くなってしまったそうです。
また、事務局長の横沢さんが、連絡を取るのに携帯や固定電話より信頼性があるからと、逃げろと呼びかける他のスタッフの声に耳を傾けず、壁に固定されていた衛星電話を必死に取り外していたのですが、どうにか外してスタッフに手渡した直後、濁流に飲まれてしまい、その後帰らぬ人となって発見されたそうです。
その衛星電話は、生き残ったスタッフの間で「横沢伝声器」 と呼ばれているそうで、横沢さんが命を賭けて主張していた通り、津波が引いた後、固定電話も携帯電話も全く繋がらない中、患者の情報のやりとりや、他の病院との薬の融通などに大活躍しているそうです。
そのまま河口まで進み、国道45号に合流するとすぐに道の駅「高田松原」の建物が見えます。
道の駅にしては比較的大規模な建物なのですが、ここも見るも無残な姿で佇んでいました。
この道の駅も昨年訪れており、昼食に磯ラーメンを食べようと思ったのですが、満員だったので、従弟が屋台で買ったつぶ貝の串焼きを食べた思い出があります。
そのすぐ先には千昌夫が建てたというキャピタルホテル1000があります。
こちらは下の階こそ浸水の被害が出ていましたが、見た目はしっかり建っているように見えます。
この辺に、釣具を買った店があった筈ですが、どこにあったのかさっぱり分かりません。。。
ちなみにブログによると、既に解散して再建予定がないということです。。。