— 手を伸ばせば届きそうなのに —
全員が乗り込んだ事を確認して船は静かに島から離れました。
一度島から大きく離れて全体を見渡せるような位置まで進んだ後、島に沿うように時計回りに進み始めました。
端島神社。
昔は立派な拝殿が設けられていましたが、崩壊してしまい今は本殿だけが残存しています。
ご覧の通り、人工地盤と本殿の間の床が抜け落ちている?ので、容易に近付くことは出来なさそうです。
ちなみに、端島神社が島の建物のトップナンバー、1号棟となっています。
上述の通り、各棟の間には渡り廊下が設けられていました。
外側からそれを確認できる場所は少なく、写真の56号棟と65号棟を結ぶものが原付が唯一確認できたものです。
他の棟の物は各フロアごとに渡し廊下が張られているのですが、ここは一ヶ所だけでした。
島の堤防に張り付く足場とか、ちょっとしたコンクリートの出っ張りの至る所に釣り人の姿が目に付きました。
こんな逃げ場が一切ないような場所でも太公望は容赦なく立ち入りますw
件の上陸の事も気になったので、帰ってきてから付近の船宿のサイトを見てみたら、辺りはなかなかの好漁場らしく、太公望が後を絶たない模様ですが、立入云々に付いて書いているところはありませんでした。
まぁ、書けませんよね。。。
船は一旦島から遠ざかり、島全体が見渡せる場所まで下がりました。
スタッフの説明によれば、この辺りから見る島の姿が軍艦土佐にそっくりなんだそうです。
確かに右側の空間などは軍艦の長い舳先のようだし、このまま轟々と進んでいきそうに見えます。
それから船は再び島に近付き、軍艦島のもっとも軍艦島らしい光景である、異常なまでに密集して林立するアパート群にズームインします。
船の進行に沿って南から北へと順番に建物の名称とその築年、特徴的なエピソードなどを記します。
写真をクリックすると建物の解説入りの少し大きなサイズの写真が開きます。
ちなみに各建物の位置関係に付いては、Wikipediaに分かりやすい図面が有りましたので、ご参照ください。
手前の白い建物が31号棟。
左端から二つ目の一番下に大きく開口している場所がズリを捨てるベルトコンベアーの通り道。
両隣の部屋はさぞかしうるさかったのではないかと思います。。。
建物の屋上に散乱している瓦礫は、かつて屋上に増築された鉄骨造の住居のものです。
背後に建つのが昭和16年築の14号棟で、右後ろに建つのが昭和6年築の25号棟。
共に職員住宅として使われていた建物で、14号棟は島の中央に位置するため、「中央社宅」 という別名があります。
一番高い位置に建つのが3号棟の幹部社宅で、昭和34年築。
この3号棟のみ内風呂が付いていると言う話は前述の通りですが、その湯船はコンクリート打ちっぱなしの小ぢんまりとしたもので、役職者の社宅とはいえ余り上等な感じには見えません。
木の残骸が残る部分には映画館(昭和館)と泉福寺がありました。
鉄筋コンクリートの建物ばかりが立ち並ぶ端島においても、昭和館や泉福寺のようにいくつかの木造建築物も存在していました。
特に、住環境としてはコンクリートのものよりも優れていると考えられていたため、鉱長の社宅などは独立した木造建築で建てられていました。
右に一部分だけ見える建物が上述の31号棟、映画館の背後の崖の中腹にあるほぼコンクリートの枠組みだけになっている建物が大正14年以前から建つ12号棟。
この建物は木造からコンクリート造となる過渡期のもので、基礎部分のみがコンクリートでそれ以外が木造で作られています。
それゆえ木造部分はほぼ全壊状態で枠組みだけが残っているような状態になっています。
その左側に室内をこちら側へ向けて建つ建物が昭和28年築の22号棟となっています。
22号棟には役場の支所が入り、公務員用の社宅になっていたとの事。
その背後に建つ白い建物が13号棟でこれは教員用の住宅でした。
13号棟は昭和42年に建てられ、島では体育館に次いで新しい建物であり、鉄筋コンクリート建築としては最新のものになります。
昭和40年代に入ると、公団住宅などの例にも有るように鉄筋コンクリート建築の技術がかなり進歩し、この棟の設計にも反映されています。
その一つが建物の形状で、各部屋が少しずつ段を作って後退するような「雁行形」 と呼ばれる構造が採用されています。
見ての通り、ほかの建物の向きはてんでバラバラなので、敷地の形状に沿うように斜めに建てても一向に問題なさそうな気もしますが、このくらいの時代になると日照などを無視することが出来なくなったのかも知れません。
この22号棟と13号棟と後述の39号棟は町営で建設された建物だそうです。
他に写っている建物に付いては、次の写真で解説します。
続いて今度は右に22号棟、その背後が14号棟、3号棟と続きます。
22号棟の隣に隠れている建物が昭和29年築の21号棟、中央手前の窓の小さい建物が昭和39年築の39号棟。
21号棟の1階には派出所があり、木製の留置所が今でも残っているそうですが、住民同士の絆が強かった端島において犯罪が発生することは殆どなく、専ら泥酔者の保護などに使われていたとのこと。
また、39号棟は公民館の建物で、図書室が併設されていました。
左手前の建物が昭和30年築の48号棟。
この建物も31号棟同様、海に面している側は共用廊下となっています。
この建物の裏の空間に端島銀座と呼ばれる島随一の商店街がありました。
商店街と言っても店舗ではなく露店が立ち並んでいて、いつも賑わっていたと言います。
48号棟と21号棟の間に小さく写っている建物が20号棟で、48号棟の背後に見える建物が18、19号棟です。
これらの建物は16号棟から20号棟まで共用廊下で棟続きになっている構造で、共用廊下から山手に向けてくし型に建物が並んでいます。
続いて、正面に見える建物が 昭和36年築の51号棟で、この建物が鉱員用の社宅としてはもっとも新しいものです。
31号棟、48号棟と海に面した建物は海側に廊下を配した設計でしたが、この建物でようやく居室を海側へ向けた構造になります。
しかし荒波への対応も重要であるため、居室と外壁の間にクローズドのベランダを設けて、ベランダに窓が付いた構造になっています。
これが、31号棟などの共用廊下と同じ機能を果たしました。
このことで風通しはだいぶ改善されたものと思いますが、建物を頑丈にするためベランダの窓は小さかったので、日照の改善効果はもしかしたらそれほどでもなかったのかも知れません。
この建物も排水用の半地下構造を設けていたそうですが、後年には個人商店が置かれていたそうです。
背後に頭一つ抜けた建物は昭和25年築の2号棟。
これも職員の社宅でした。
背後の社宅の屋上に建っているように見える小さなやぐらは端島神社の本殿です。