道南散歩【4】(2013/08/15)
2013/08/15
東京の連日の熱帯夜に比べたらまさに天国。多少変則的な寝方も気になることなく、がっつり熟睡して6時に起床。
昨晩の疲れが残っているのか、カミさんはすぐに起きなかったので、起きるまで車の記事用の写真を撮っていたら、7時になってようやく起きてきた。
今回の宿泊地、道の駅「そうべつ情報館i」は99年に北海道を旅した時も一泊している。
当時は「そうべつサムズ」という名前だった。その後建物が建て替えられて、その際に名前が現在のそうべつ情報館iに変わったそうだ。
今回
99年
駐車場の道向かいにあったレストランも店の名前が変わっていたが、建物は健在。
前回は建物越しに昭和新山と有珠山が聳え立って見えたのだが、今回は立ち位置が違ったのか山がずいぶん小さい。
有珠山は、初めて北海道の地に上陸した翌年(2000年)に噴火し、周辺に甚大な被害を与えたことが記憶に新しいが、噴火が収束した後に整備を行い、一帯が洞爺湖有珠山ジオパークとして認定された。噴火で生じる様々な事象や、火口そのものを巡る遊歩道(フットパス)があるそうで、これからそこを散策してみようと思う。
北海道旅行は前述の通り、大概車の移動に費やしていたので、自分の足で歩き回る経験は初めて。どんな景色が見れるのか楽しみである。
朝食を済ませ、散策の出発地となる洞爺湖ビジターセンターへ移動。ビジターセンターはまだ開いておらず、建物裏の駐車場に車を止めて準備開始。
曇りがちだが、時折雲の切れ間に青空が見え隠れするような空模様で、すぐに雨が降り出しそうな感じはないが、たまに色の濃い雲も漂っているので、念のためリュックにレインコートを忍ばせておくことに。
虫よけで武装し、熊よけの鈴をぶら下げていざ出発!
このページで通ったルートのGPSログ
駐車場の背後に土手のようなものがある。進路はそちらだそうだ。斜面に付けられた階段を登ると、その反対側は波型の鉄板が一列に並んで切り立っている。土手のようなこの施設は導流堤と呼ばれる、泥流防止の砂防施設だそうだ。導流堤とは、上流から流れた泥流を谷からはみ出さないように、流路工と呼ばれる溝に導くための堤防とのこと。
導流堤の更に裏手には、かつて木の実の沢と呼ばれていた集落跡が広がっている。
今ではアパートが一軒だけ建つ寂しい原っぱになっているが、かつてはここに集落が存在していた。
1977年の噴火の際、建物直下に生じた断層や泥流などにより、建物への被害が出た。上流の砂防ダムと西山川と呼ばれる流路工(人工の川)を整備して復興を果たすが、2000年の噴火は、この集落のすぐ背後で起こり、集落は再び泥流に襲われてしまう。
結果、集落は放棄されることとなり、住んでいた人たちは移住を余儀なくされた。
この場所は、人が住む場所の間近で噴火が起こったらどのような事態になるのかを後世に伝えるための災害遺構として整備保存しているそうだ。
導流堤の下へ降りる階段があり、そちらへ順路が示されていたので、階段を降りる。遊歩道はここがスタート地点である、横に掘っ建て小屋が建てられている。
その脇に協力金を求める募金箱が設置されていたので。我々もささやかながら協力させてもらった。
導流堤の裏側は5m近い高さのカミソリ堤防になっているのだが、これこそが湖畔集落を守る最後の砦なのだ。ここを泥流が越えたら、湖畔の集落も泥流に襲われることになる。
今は砂防ダムの底に立っている。簡易的に舗装された遊歩道が伸びていて、道の両脇に様々な花が植えられている。殺伐とした風景の中でまさに華を添える存在である。この花々が泥に埋まる日が来ないことを願う。
その遊歩道を歩いていくと、まず最初に見えてくるのがやすらぎの家という建物だ。ここはかつて町営温泉だったらしい。何となく見てるだけだとあまり違和感を感じないが・・・、
正面玄関に回ると、入口の半分くらいの高さまで泥に埋め尽くされている。泥の跡を見てわかる通り、一時は屋根近くまで埋まるほどの泥に洗われている。
後方を振り返ると、どう見てもそこにあるのが似つかわしくない建造物が取り残されている。これは90メートルほど上流にかかっていた、木の実橋と呼ばれる橋の残骸である。泥流によりここまで押し流されてきたのだそうだ。
川を斜めに渡る橋だったので、形状がひし形になっており、とがった先端部分を見るとまるで、陸に座礁した船の舳先のようにも見える。
橋の上に降り積もった灰の上から旺盛に木が伸び、すでに人の背丈を優に越える高さに成長している。
噴火はついこないだのような感覚だったが、この木の高さが、あれから十数年が経過している事実を無言で教えている。
更に歩道を進んでいくと、堤体の上からもひときわ目立っていたアパートが近くに見えてくる。
これは桜ヶ丘団地という団地で、ここには元々3棟のアパートが建っていたが、泥流被害によってやすらぎの家同様に放棄せざるを得なくなったため、被害のひどかった1棟のみ遺構として残して、他は解体したとのこと。
その一棟がこちらである。こうしてみると、このアパートも雑草の手入れが行き届いていない4階建てのアパートだと言われれば、そうか、と思ってしまうが、この建物は5階建てである。いうまでもなく、1階は地面の下に埋まっている。
住人は被害が出る前に避難を済ませていたので犠牲者こそ出さずに済んだが、家財道具などは取り出せないまま放棄せざるを得なかったという。あれやこれや思い出もあったであろうに、それらを放棄しなければならない心境はいかばかりだろうか。
また2階(しつこいが、1階は土の下である)の角の部分が激しく破損している。これは先ほどの木の実橋が泥流に流されてきた際、ぶつかってできた傷だという。
部屋の中がどのような惨状なのか見てみたい気もするが、いかんせんロープで規制されているので、外から見学することしかできない。
さて、進路はここから少し戻るようになっている。西山川にかかる3つの橋のうち、唯一流されずに済んだというさくら橋を渡ると、その先にジオパークとして整備されたフットパス(散策路)の一つ、金毘羅山コースのスタート地点があるのでそこまで移動。