櫃石島から与島へ戻るバスに乗り込み、最後部の席を陣取る。
さっき歩いてきた島内の景色がビデオを逆再生するかのように流れ、ゲートを抜けると再び高速に合流。
帰りは岩黒で降車する人はなく、そのまま与島のバス停まで戻ってきた。
「島の中まで行かれますか?」
運転手が、朝最初にパーキングエリアからバスに乗ったことを覚えてくれていたようで、バスを降りようとしないウチらに質問をしてきた。
この後与島の島内を散策するつもりなので、そうします、と返事をするとバスは扉を閉めて、専用ゲートへと向かう。
ゲートから続く道は区画整理された広くて真っすぐな道で、そこを数分進んで道の突き当りに近い所で停車。ここが与島フィッシャーマンズワーフバス停となる。
時刻表上では、ここから更に坂出方面へ行くように書かれていたが、乗ってきたバスはここが終点で、坂出方面へ行くには別の会社のバスに乗り継ぎとなる。降りる時に「坂出方面へ乗り継ぎますか?」と聞かれたが、おそらく乗り継ぎ割引などがあるのかもしれない。
島を散策したらそのままパーキングエリアの自分の車へ戻るので、大丈夫です、と答えると、バスは扉を閉めて発車して行った。
バスが走り去って改めて周囲を見回す。きれいに整備された場所だが、全体的にうら寂れている。右には廃墟が無言で佇み、左を見れば遥か見上げる位置に瀬戸大橋が島の地形を一切無視して一直線に突っ切っている。
その上をひっきりなしに行き来する車が継ぎ目を跨ぐ音と、時々島中に響き渡るような電車のけたたましい通過音が聞こえてくるだけで、人の気配は全くない。
まぁ、正月の昼前だから、こんなものなのかもしれないが、これまで散策したどの島でも、バスを降りた直後の第一印象が同じである。
それはさておき、与島は島旅66番目の島である(2011年の正月旅行でパーキングエリアまでは一度来ているので)。
与島はバブル景気と瀬戸大橋開通という狂乱時代に翻弄された島である。
瀬戸大橋は、昭和30年に発生した紫雲丸の衝突沈没事故をきっかけに、本州と四国の間への架橋を求める機運の高まりを背景に計画され、昭和53年着工、10年後の昭和63年に開通した橋だ。
とはいえ、本四間の海に浮かぶ島々をつなぐ橋を架けるだけでも大変だというのに、上に道路、下に鉄道という2階建て構造の橋を架けるというのだから、計画当時としては夢物語にも近いような壮大な計画であったことは想像に難くない。
本四間のどこを渡るのか、そのルートはいくつか候補が挙がった。そのルートの一つ、児島・坂出間を結ぶルートの場合、与島には橋の橋脚が設置される。過疎化に悩む、採石が主産業の島にとって、ここに橋がかかれば、この世紀の一大イベントのご当地としてスポットライトを浴びることは明らかで、過疎化脱却へのまたとないチャンスである。
そして、昭和41年にルートが児島・坂出ルートに正式に決まったことを受けて、与島は過疎化脱却の起爆剤として観光開発を行って観光の島として歩むことを選択する。
島には与島パーキングエリアの設置が決定し、橋の開通後には、京阪電鉄が海に面した場所に「京阪フィッシャーマンズワーフ」という商業施設を開業させる。
1988年は青函トンネルも開通し、国内主要4島がレールで結ばれた記念すべき年で、瀬戸大橋は当時鉄道併用橋として世界最長を誇ったことから、そのブームは大変なもので、世界一の物を一目見ようと沢山の観光客がこの地を訪れた。
かくいう自分も1988年5月のGWに父に連れられて瀬戸大橋を渡っている。快速マリンライナーの車内は大層混雑しており立ち席だった。
上の写真は、橋の上から撮影した瀬戸大橋記念公園(狙って撮影したものではないが)。見づらいとは思うが、エントランス部分に集まる人の多さで当時の活気を感じていただけたら幸いである。
順調な滑り出しに観光の島への脱皮は成功したかのように見えたが、このフィーバーは残念ながら長くは続かなかった。その主な要因は通行料金の高さとバブルの崩壊による通行量の低迷によるところが大きい。
瀬戸大橋に限らず、明石海峡大橋しかり、しまなみ海道しかり、アクアラインしかり、ビックプロジェクトで開業した橋は、大概通行料金が非常に高額に設定されている。瀬戸大橋の通行料金は当初5500円もしたという。
この金額は本四間を結ぶカーフェリーより相当高く、1回5000円以上の通行料など、とても普段使いとして使えるモノではなかった。
恐らく、世紀の大プロジェクトなのだから物見遊山で訪れる人はひっきりなしだろうし、この好景気が続いてもっと経済成長すれば、このくらいの金額ははした金程度になると踏んでいたのだろう。
ところがバブル崩壊である。潮が引くようにフィーバーも急速に終息していく。橋を渡る観光客をアテにしていた島の施設は大打撃を受ける。橋を通る人が少なくなれば、橋からしかアプローチできない島に訪れる人が減っていくのは当然であり、開業後わずか3年でフィッシャーマンズワーフも赤字に転落。
こんな状況でも料金値下げなどの改善策が打たれることはなかったため、交通量は回復せず、じり貧の営業を続けていたフィッシャーマンズワーフも、ついに京阪電鉄が経営から撤退することになる。
その後別の業者が譲り受けて再起を図ったものの、最終的には2011年11月末をもって廃業、今に至る。
そう。
前回訪れたとき第二駐車場に迷い込み、途中で通行止めを食らって悪態をついて、折り返した時に撮影したフィッシャーマンズワーフの写真は閉鎖された直後の姿だったのだ。
第二駐車場は冬季閉鎖だったわけではなく、フィッシャーマンズワーフの廃業に伴った閉鎖だったわけである。
それから2年余りの間に建物も解体されてしまい、降りた場所の目の前にその跡地があったはずなのに、うっかり写真を撮り忘れるという大失態・・・。
オチ?が付いたところで、今のリアルに話を戻す。
バス停の目の前には植物園の温室らしき建物があり、重厚なエントランスになっている。
ちょっと覗いてみたところ。。。
事務所は夜逃げもかくや、といった有様。。。撤退するにしてももう少し片付けて行けばいいのに。。。
この施設はベゴニア海花園という名前で、窓口に掲示されている入場料は大人1500円としている。いくらなんでも植物園に1500円は無謀すぎる気が。。。
ここまで来るのにただでさえ数千円の通行料を払っているわけで、名所でもない場所で更に1500円払って植物園を見て行こうという人は、まぁ、どう考えても少ないと思う。
じり貧に喘ぐなかで施設を維持するための価格としては最低限だったのかもしれないが、これでは撤退もやむなし、という気がする。
周りを見回すと、かつての採石の跡か、岩が屹立していて、この一部だけでみるとどこか山奥の谷間にかけられた橋のようにも見える。
さて、ひと気のない廃墟エリアばかり見ていてもしょうがないので、ぼちぼち移動しよう。
島の南に集落があるので、そっちへ行ってみようと思う。