三都物語【2】(2004/05/02)
淡路島:
2004/05/02
ほとんど眠れぬまま早朝に大垣駅に到着。恒例の大垣ダッシュを見学。自分らは一本見送って次の列車でのんびりと旅を続けた。
ということでいよいよ京阪神ツアーの始まりである。今日から3日間で兵庫、京都、大阪の順に散策してみようと考えている。今日は兵庫県の散策となるのだが、三宮とかの辺りをぶらついてもしょうがないので、淡路島と六甲山辺りを散策する予定である。
乗った電車は快調に関西へ向けて進んでいく。関が原を越えて米原、大津、京都、大阪と進んでいくわけだが、考えてみたらかなりの長距離運転だ。そんな長距離を乗り換えなしで進んでいけるのだから楽ちんである。
昨晩、煙たい電車で横になることも出来ず、ほとんど寝付けない中で到着したので、体は煙草臭いし、眠気でフラフラする。
乗り換えの電車に乗って席を確保したあとはひたすら眠りこけた。ムーンライトながらと同様に頻繁に駅に停まっていた筈だが、全く気が付かなかった。
三宮の辺りで目が覚めたのだったかな。ようやくいくらかスッキリして、景色を眺める余裕も出てきた。
そうこうしているうちに明石に到着。
ホームから明石城が見えた。天気も良く天守閣も晴れ晴れとしている。
明石は淡路島へと向かうフェリーが発着している。淡路島へ行くなら高速バスで明石海峡大橋を渡る方が早いのだが、フェリーでのんびり移動してみたかった。
明石駅からフェリーターミナルへの道すがら、アーケードのある商店街を歩いて行った。明石名物である明石焼きを売っている店が何軒かあり、折角なので1つ購入。それと、子持ちイカの炊いたんが美味しそうだったのでそれも購入。フェリーで食べてみよう。
フェリーターミナルから出港するのは明石淡路フェリーの船。乗り込んでデッキに移動。
天気は五月晴れ、と言うにはちょっと靄がかっている。そのせいで船から眺める景色はイマイチだったが、下から眺める明石海峡大橋の姿はレインボーブリッジとは比べ物にならないくらいの迫力だった。
それからさっき買って来た明石焼きとイカを食す。右手に淡路島、左手に明石市街を眺めながらほおばるそれらは、またとない美味さだった。
このフェリーはたこフェリーと呼ばれて親しまれていたが、後の民主党政権の頃に実施された1000円高速(全国の高速道路が1000円均一で通行できるという政策)の影響をモロに喰らって廃業してしまった。
1000円高速は自分らのような旅人にとっては有難い政策だったが、その一方でこうしたインフラの廃業を引き起こしてしまい、批判の元となった。
淡路島の島影がどんどん大きくなり、岩屋港に到着。
淡路島への初上陸はフェリーというなかなかマニアックな方法で上陸することとなった。当時の自分の采配をほめてやりたいw
淡路島は自分の島旅23番目の島である。
さて、淡路島に上陸して何がしたいかというと、野島断層保存館の見学である。阪神淡路大震災によって露出した断層とやらを見てみたい。保存館はここからだと車で10分くらいの場所にある施設だが、バス停を見つけるより早く港前のレンタサイクルショップに目に留まった。
ここまでほぼずっと座りっぱなしで体が鈍っている。少し体を動かしたいと思って、自転車で移動することをカミさんに提案したら、賛同が得られたので、2台借りてにわかチャリダーの爆誕である。
道はずっと海沿いに続いていて、右手側に常に見えている海はどこまでもきれいな色をしていた。海沿いなのでアップダウンもなく、実に爽快なサイクリングが楽しめるルートだった。
淡路島の農産物と言えばタマネギらしい。収穫期には海の上をタマネギがぷかぷか浮かんでいる、と言う話をどこかで聞いたことがある。何故海に浮いているのだろう。出荷できなかったものを海に投棄しているのだろうか?
島の西側の海岸に沿って30分ほど漕いだら野島断層保存館に到着。程よい運動量で軽い疲労感が心地よかった。
ここまでの道すがらの海上にタマネギは浮いていなかった。
野島断層保存館:
保存館の周りは北淡震災記念公園として整備されていて、そのせいか、公園の周囲でたまねぎなどを売る売店が軒を並べていた。
それらを一瞥して、保存館へと入館。
入館料を払って順路に従って進む。実はこの時、館内では殆ど写真に撮っていない。その理由は最早忘れてしまったが、撮影禁止と書かれていたか、書かれていなくて、禁止だったらまずいと思って撮らなかったか。。。
建物の名前に冠されている野島断層とは、1995年に発生した阪神淡路大震災によって地表に出現した断層である。ずれの変位量は高さ方向に数10センチ~1メートル、左右方向に1~2メートルほどだったそうだ。
断層は野晒しにしておくとやがて風化してその痕跡を失ってしまうため、震災後に保存が行われ、それを展示するために作られたのがこの野島断層保存館である。
阪神淡路大震災が発生した時、自分は高校3年だった。自分はそれまで大きな地震に接したことがなかった。埼玉のあたりではせいぜい年に1度くらい震度4程度の地震がある程度で、それすら珍しいイベントだったせいか、家が揺れると家族がデカい!デカい!と騒いでいたような記憶がある。
小学生の頃、学校の図書室で学研のひみつシリーズの一つ、地震のひみつという本を読み、大地震が発生すると大きな被害が出たり、場合によっては人が死んだりする、と言うことを知り、以降、大地震に漠然とした恐怖を感じるようになった。
30年ほど前はそろそろ東海地震が起きるぞ、なんて言われていて(今も言われているが)、あちこちで東海地震に対する備えを促すアナウンスを耳にしていたことを思い出す。
東海地震はその当時、予知可能な地震であるとされていて、その予兆が観測されたら速やかに緊急事態宣言が発令されることになっていた。
発令されたら、付近の鉄道は運休、道路は通行止となり、仕事や学校はその時点で中断して自宅または安全な場所へと避難、各自万全の態勢で臨んで地震を安全にやり過ごす、と言うのが基本的な想定プランだった。
そう言えば、静岡辺りでは高速道路のサービスエリアに、トンネル内で地震が起こった時の対応や東海地震対策強化エリアを示す大きな看板が掲げられていたな。
長らくそんな漠然とした恐怖心を煽られ続けてきた訳だが、その地震は一向に起こる気配がない。すると、だんだん怖さが薄らいでくる。
今は建物も頑丈になっているし、技術も進歩しているので、もう大地震なんか起こっても実際には大したことにならないのではないか、みたいな感情が心のどこかに芽生えつつあった。
そうした中発生したのが阪神淡路大震災だった。関東は揺れなかったので、最初は大阪の方でなんか地震があったらしいね、くらいの感じだったが、テレビニュースでヘリなどから現地の様子が伝えられるようになってくると、途轍もない大災害が発生したらしいことが分かってきた。
大きなビルや高速道路が横倒しになり、街のあちこちから火の手が上がっている。本で読んだ関東大震災の古い写真と同じ酸鼻を極める光景がテレビに映し出され、神戸出身のテレビキャスターは倒壊したビルの前で涙を流している。
それを見て大災害だな、とは思うが、自分にとってテレビの向こう側の話でしかなく現実感がない。我が事のように心を痛めなければ不謹慎な気もするけど、それは自然に湧き出る感情ではない。この何とも言えない感情は、高校生の自分にとって戸惑いを覚えるものだった。
その地震そのものについては凄く興味を持った。所詮野次馬根性だったのだろうが、その大震災を引き起こした地震と言うものがどのようなものであったのか知りたくなった。とは言っても、最初はせいぜいテレビか新聞で興味を持ったら見るくらいのものだったが。
それから数年もするとインターネットが普及するようになってきた。ネットで検索すれば様々な情報が入手できるようになって、あれこれ深堀りして調べたりするなかでこの保存館のことを知り、以来一度見てみたいと思っていたのだった。
ちょっと思い出話が長くなったので、話を旅の思い出に戻す。
断層の露頭展示エリアは奥の方に向かって100メートルくらい続く大きな建物だった。その露頭は上述のとおり数10センチほどの段差である。正直この程度の地面のずれが、あれほどまでに酸鼻を極める大災害に発展する物とはにわかに信じがたかった。
断層に並行する順路を進んでいくと生け垣がずれた場所があった。これは断層が横方向にどのくらいずれたのかが分かる痕跡となっている。
更に断層のトレンチがあり、その先で建物の外に出る。
建物の外にはコンクリート製の一軒家が建っているが、この家の敷地内を断層が通り抜けている。
塀の途中に断層によって割れてしまった所があり、それも保存されていた。なぜか、この塀だけ写真に残している。
その家は公開されていて室内に上がることが出来るようになっていた。この家の持ち主は地震後も建物を修繕して住み続けていたが、保存館を建設するにあたり、その展示物の一つとしたいという打診を受けて、譲渡したのだそうだ。
室内はダイニングキッチンに震災直後の様子が再現されていた。食器棚はあらぬ方向に倒れ、食器や家電が散乱する様子は、震災直後の被害の生々しさを留めていた。
しかし、この家の家主は自宅の敷地に断層があるなんて知らなかっただろうし、まして、まさかそれが活動して大地震を引き起こすなんて夢にも思わなかっただろう。その心中は察して余りある。
そうして順路を一周して見学を終えた。GW期間中であるせいか見学者が多く、館内は混雑していて断層をゆっくり見ることが出来なかったのが心残りだったが、長らく一度来てみたいと思っていた場所が見られてとても有意義な時間だった。
カミさんがどのようなことを感じながらこの施設を見学したのかは分からない。自分の興味本位に付き合わされて飽き飽きしているかな、と思ったが、多少興味のありそうな顔で見学していた気がする。
再びチャリにまたがり岩屋港に戻る。淡路島の見どころは他には知らなかったので、そのまま神戸に戻ることにした。
写真は岩屋港の目の前にあった小島。と言っても陸続きになっている。
名前はおのころ島という。漢字で書くと「自凝島」。正式には絵島と言うらしい。
おのころ島と言えば、古事記や日本書紀といった国生み神話の中で、日本で一番最初に作られた島として登場する伝説の島である。最初にこの島が作られ、それから日本列島が作られていった、と言うストーリーになっているのだが、その一番最初に作られた島がこの絵島だというのである。
淡路島は神話時代に日本列島の中で一番最初に作られた場所であるとされており、島内にこうした伝説にちなむ史跡が点在しているらしい。
ただ点在させすぎたのか、おのころ島とされる島は島内に2カ所もあるので、どちらかはニセモノということになるw
さらに言えば、淡路島以外にも同様の名乗りを上げている場所がいくつかある。本物のおのころ島はどれなのだろうか。
帰りは岩屋港からバスに乗って明石海峡大橋を渡った。明石海峡大橋は初めて通ったが、かなり高い所を通過しておりその見晴らしは素晴らしいものがあった。
そして、本土に渡るとその先はすぐ山にぶつかる。道路はまっすぐ山の中に突っ込んでいくが、そのトンネルのすぐ手前に高速舞子のバス停がある。そこでJRの舞子駅、および山陽電鉄の舞子公園駅に接続しているので、我々もここで下車。
さて、次に向かうは六甲山である。ほんと、街へは行かないつもりだなw
六甲山:
六甲山へはケーブルカーに乗って向かおうと思っている。六甲山へ登るケーブルカーの駅は阪急の六甲駅からバスに乗ったところにある。
と言うことで、山陽電鉄と阪急を乗り継いで六甲駅で下車。六甲ケーブル下駅へ向かうバスに乗ろうとしたら、バスは我々が到着する数分前に出発してしまった後だった。
次のバスはだいぶ先になるようだ。六甲ケーブルで山頂に行き、山頂から今度はロープウェイで山の裏にある有馬温泉に降りそこでお風呂、と言うプランを考えているのだが、接続の問題だったか、ロープウェーの終電の問題だったか忘れたが、次のバスを待っていたら先の計画が破綻するので、困惑してしまった。
バス停の前で途方に暮れていたら、近くに停まっていたタクシーの運ちゃんから、
「お客さんたち、六甲ケーブル行くん?急いでるならタクシーで連れてったるよ。2人やったら料金もバス代とあんまり変わらへんから。」
と、声をかけられた。そっか、タクシーで登るっていう方法もあるのか。タクシーって料金が高いイメージだが、よくよく計算してみると確かに複数名ならそう大きな金額の差にはならない。ちょっと考えれば分かりそうなものだが、盲点だった。
ということで、そのタクシーにお願いすることにした。
六甲駅から六甲ケーブル下駅までの間は住宅街の坂道をひたすら登っていく感じだった。次のケーブルカーの便に間に合うよう気にしてくれたのか分からないが、エンジンをふかしながら、ハイペースでなんならトロトロ前を走っている車に悪態をつきながら走ってくれて、ケーブルカーの時間には無事間に合った。
神戸は日本でも有数の坂の街だ。街を守る天然の要塞のごとく、背後に六甲山地がそそり立っていて、鉄道や道路が集中する海岸沿い以外は殆どが傾斜地である。
それがまた街の風情となっている訳だが、六甲山地はかなり険しい山地で、その昔、初めて神戸を訪れた時に、道々の傾斜に度肝を抜かれたことを思い出す。
そんな場所なので、山の上に行くためにはケーブルカーのような乗り物が必要になる。
写真では分かりづらいと思うが、地面に立つのも大変そうな急傾斜をケーブルカーは登っていく。
そして数分の乗車で六甲山上駅に到着。駅のすぐ近くに天覧台と言うビュースポットがあったので、そこへ行ってみた。
まぁ、いい感じにモヤっててロクな景色は見れなかった。やっぱりこういう所へ来るのは冬がベストだよな。。。
2人で記念写真を撮ったりしていたら有馬温泉へ降りるロープウェーの時間になったので、再び駅に移動。
ここから六甲有馬ロープウェーの表六甲線と裏六甲線を乗り継いで有馬温泉に向かう。
表六甲線は我々が乗車後、半年ほどで休止となってしまった。施設の老朽化によるものらしいが、その時のロープウェーの写真を撮っていない。惜しいことをした。
裏六甲線に乗り継いで山を一気に下ると有馬温泉駅。
有馬温泉・南京町:
有馬温泉と言えば日本三古湯の一つとされ、日本を代表する名湯である。折角だからそんな温泉に入りに行こうと思う。
ロープウェーの有馬温泉駅は温泉街の山手にあり、ここから坂道を暫く下った先に温泉街が広がっている。
温泉街は細い道の両脇に名物の炭酸煎餅を売る店が軒を連ね、古き良き温泉街の風情を残している。有馬温泉の中で気軽に入れる共同浴場は、金の湯、銀の湯の2か所がある。
今回入浴したの金の湯の方だった。理由は忘れてしまったが、軒先の雰囲気をみて決めたんだったかな。
日本3名湯を名乗るだけあって、赤銅色に濁ったお湯は少し入っただけでぽかぽかになる。看板偽りなしの名湯だった。
カミさんは中華街の類が好きらしい。神戸には南京町と言う中華街があり、もちろん行きたいと言っている。
そこで夕食は南京町に繰り出して食べることにした。
有馬温泉には神戸電鉄が乗り入れており、そこから神戸市内方面へ行くことが出来る。
途中の谷上から北神急行に乗れば三宮までそんなに時間はかからないのだが、ローカル線の旅情を味わいたくてそのまま終点の新開地まで乗り通した。
それから南京町最寄りの元町まで乗って下車。南京町に付いた時には既に20時を回っていた。
南京町のメインストリートは夕飯時の混雑もひと段落した後で、まったりとした空気が漂っていた。
だが、まだ軒を出している屋台も点々とあったので、それらを冷やかしながら、めいめい食べたいものを食べた。
これで、初日の神戸観光は全て終了。このあと宿へ直行する。
今回は鉄旅なので宿を確保している。まぁビジネスホテルなんだが。場所は大阪市内、西中島南方の駅近くにあるホテルミツフという宿だ。ここを2泊押さえており、今回の旅の拠点とすることにしている。
と言うのも、今回の旅はあまり細かい計画を立てておらず、その場のノリで予定変更もアリの旅程なので、散策の終わりが何時になるか分からない。なのでそれぞれのエリアで宿を押さえるよりは、一か所に集中させた方が何かと便利だろう判断したからである。邪魔な荷物は宿に置いて行けるしね。
ただ、これからそこまで移動しなければならないので、それは面倒と言えば面倒だが。
深夜の東海道線で大阪まで移動し、宿に着いたのは23時を回っていた。そのままシャワーを浴びてすぐに就寝した。