ということでまずやって来たのが、近くにある八丈歴史民俗資料館。
かつて八丈島を治める八丈島庁が置かれていた場所だ。
入場料は一人200円とのことで、料金を払って館内へ。
館内は古い木造校舎のような雰囲気だ。
受付の前に立っていた係員のおじさんが館内を案内してくれるという。
入口はいってすぐの部屋に八丈島のジオラマが置かれていて、そこで島のあらましなどを教えて貰った。
八丈八景の話が出たので、昨日大坂トンネルの展望台に行ったが日没が見れなかったと話すと、この時期になると太陽は左側の崖に隠れるように沈んでしまうので、天気が良くても八丈小島の付近に沈む夕日を見ることはできなかったんじゃないか、と教えてくれた。
それから更に奥の部屋に通されて、島の紹介ビデオを見ていくよう言われた。
かなり昔の作品のようで映像がかなり古臭い。係員もセッティングしながらちょっと映像が古いんですけどね、と苦笑していた。
ビデオの中で丹那婆(たなば)伝説、というものに触れていた。かつて八丈島に大津波が襲来して島民が軒並み溺死してしまうのだが、丹那という妊婦が唯一生き残り、やがて男の子を出産する。のちに丹那はその息子と母子交配して子孫を増やし、今の八丈島の祖先となったといわれる伝説だ。
近親交配は古来から経験則的にタブーとされていたわけだが、ポリネシア地方の伝承には同じようなものが散見されるという。文化的にも影響を受けていると考えるのが普通なので、そのバリエーションの一つなのだろう。丹那婆の時代にそのようなタブーはなかったのだろうか。
もっとも、のちの調査では一般に知られている八丈実記で近藤富蔵が記した丹那婆伝説と、その近藤富蔵が引用したとされる高橋與一が旧昔綜嶼噺話に記した伝説ではその内容が異なっており、近親交配については触れられていなかったという話もある。
まぁ、それはさておき、ビデオを見ている間に何人か来館者があり、係りのおじさんも彼らの対応で受付に戻ってしまったので、ビデオを見終わった後は適当にぶらぶらと見学してみた。
別の部屋には流人にまつわる展示があった。
八丈島は情け島、と言われる通り島人は流人に対して好意的に受け入れてきたと言われている。
流人制度が始まった当初は島流しに刑されるものは政治犯など基本的に位が高い人が多かったため、流人といえど教養は高く、都の文化が持ち込まれて島の発展に繋がるということで、島民とも共存共栄できていたそうだ。
ところが、時代が下ると、賭博で捕まったものなど筋の悪い罪人が流されてくるようになり、島民とのトラブルが目立ち始める。その頃になると島の人間に手を出したものをカゴに入れて崖から落としたりするなどのリンチも行われたらしい。
そのころ青ヶ島が大噴火して、300人の島民のうち100人余りが逃げ遅れて命を落とすという惨事(天明の別れ)があり、辛くも逃げ出せた島民たちは八丈島に避難した。ところが当時の八丈島は食料の生産が不安定で度々飢饉に喘ぐような状態だったため、避難してきた島民を十分に養うことが出来ず、流人以下の扱いをせざるを得なかったという記録も残されている。
また、八丈島同様流人の島であった三宅島では、もっとえげつないことが行われていたとも書かれていた。
流人が島に流れ着くと、初めに先輩格の流人が歓迎して、手取り足取り上げ膳据え膳で手厚くもてなしてくれるのだが、数日後に膨大な費用を請求し、流人が持参した財を全て没収するという、今でいえばぼったくりバーのようなことが横行していた。
これによって一文無しとなった新人の流人は各家の門を叩いては乞食のようなことをする羽目になったという記録もあるそうだ。
八丈島への流罪に処された者も、風待ちのため一度三宅島へ寄港し、概ね3、4か月の間、島に滞留するのだが、そのような事が横行していたので一日でも早く八丈島へ出港するよう嘆願が行われたりすることもあったらしい。
そんな話は都にも伝わっていただろうと思われ、いよいよ島流しを命ぜられた罪人はさぞ不安に感じただろうことは想像に難くない。にもかかわらずいざ八丈島に到着すると、島民たちは彼らを温かく迎え入れ、人としての扱いをしてくれるのだから、「八丈は情け島」と詠ったのも頷ける話だ。
廊下に沿った部屋は10か所くらいあり、その一つ一つに島の歴史や風俗にまつわる展示がぎっしりとなされているので、ちゃんと見ようと思ったら半日は余裕でつぶれてしまいそうだ。
壁に八丈かるたが掲示されていた。
八丈島は本土との間に流れる黒潮のせいでたどり着くことが難しく、かつては「鳥も渡らぬ八丈島」と形容されたほど本土との交流が少なかった。そのため言葉も独自の進化を遂げ、こんにちで言う八丈方言が使われていた。
八丈方言は前述のふれあい牧場のくだりでも少し触れたが、「おじゃる」という公家言葉が残っていたり、現代日本語では使われなくなった活用法が有ったりと非常に独特で、ウチナー口と同様、日本語とは別言語とする説もある。
戦後になって本土への就職時に困らないように、などという理由で標準語教育がなされたため、今ではネイティブでしゃべれる人は殆ど残っておらず、ユネスコの国際委員会によって、消滅の危機にある言語として指定されてしまった。
そのようないきさつがあって近年では島言葉が見直され始め、現在ではこのようにかるたを作ったり、小学校で島言葉の演劇をやったりと言葉を残す活動が行われているとのこと。
ところで、ミャークフツ(宮古口)やウチナーグチ(沖縄口)に触れたときも感じたのだが、方言を紹介する時に標準語で言うとこれこれです、といった感じでまるで翻訳しているかのような表現がなされているのを良く見かける。テレビなどでも方言はカタカナで記述され、一見標準語とまるで関連がない別言語のように紹介されたりしているのを見かけるが、なんだか方言を単に面白がっているだけのような気がしてあまり感心できない。
実際には現代の標準語にない言葉なども昔語りや方言など、多少の語彙があればその方言の由来となる標準的な単語だったり用法といったものにピンとくるものだ。
例えば上のかるたの下から2段目の右から2つ目、
「さすみょ さなかんして しまざけい のもごん」
と書かれているかるたがあるが、ひらがなで書かれると話者以外は全くピンと来ないと思う。
その脇に意訳が書かれているが、これだって、
「刺身ょ 肴んして 島酒い 飲もごん」
と書けば意訳を書かなくともニュアンスぐらいは幾分理解できるし、本来の意味との結びつけもしやすくなるんじゃないかと思う。
それはさておき(方言の話題になるとつい熱くなってしまう。。。)、他にも興味を惹かれて立ち止まって見入ったものも何点かあったが、キリがないし実際にご自身の目で見る楽しみもなくなってしまうと思うので、ぜひ足を運んでみていただきたい。