岩手の地震の爪跡を訪ねて - 12(2011/05/03)
更に少し進んだところに、雇用促進住宅が2棟立ち並んでいるのが見えました。
見ると、建物の4階部分までは一様にベランダの手すりも窓のサッシもなくなっていて、最上階の5階部分のみがかろうじて原型をとどめています。
その姿に言葉を失うと同時に、失礼ながら軍艦島や松尾鉱山に立つ廃墟を想像してしまいました。
どのくらいの高さの波が襲い掛かったのか、これを見ると一目瞭然です。
大体1フロア3mと仮定してもその高さは12m。
5階も一部ガラスやベランダが壊れている部分が有るので、実際には5Fの一部までは浸水しているはずなので、恐らくそれ以上の高さの波に襲われていたことになります。
道の脇に停車して車を降りて周囲を眺めると、
ありえない場所にある民家の2階部分。
水門に引っかかった民家の屋根。。。
傾きながらも津波の水圧に耐えた橋の欄干。
これも流された大船渡線の鉄橋。
Googleの航空写真で見ると、鉄橋が付近の線路を引きちぎりながら上流方向へ流されていった様子が分かります。
下の白黒の線が元々の線路の位置で、上流の川の左岸にある構造物が流された鉄橋です。
元々のレールの位置から、流された場所までレールが緩やかなカーブを描いて繋がっているのが分かります。
おじさんが、沿岸は砂漠のようになっている、と言っていたのがうなずけます。
あるいは、空襲の痕のようにも見えます。
地域にある数千世帯の家々が根こそぎ流されるなどということが想像できるわけもなく。。。
従弟は、
「なんだか頭がボーっとして、何を考えてよいのか分からない。。。」
と小さく呟きました。
原付もその時同じ状態になっていました。
現実にはありえそうにない光景が、確かな現実として目の前に広がっていて、それを現実としてどう受け止めてよいのか、頭が咀嚼しきれず思考が停止してしまっているような感じです。。。
暫く無言で辺りを眺めていると、従弟が、
「そろそろ戻ろうか。」
といいました。
確かに日が傾いて暗くなってきたし、現場には街灯もない状態なので、暗くなる前に帰ったほうがよさそうです。
もう少し見ていたい、と後ろ髪を引かれる思いもなくはなかったのですが、安全には替えられません。
ということで、戻りのコースは原付の運転で帰ることになりました。
来る時に見たあの交差点の渋滞を考えるとちょっと気が重いところもありましたが、いざ通りかかってみると渋滞は丁度解消されていてスムーズに通過することが出来ました。
帰りのコースは再び気仙沼を経由して戻るコースで帰る事になりました。
道程はおおむね順調で、一関まで戻ってくることが出来ました。
結局気仙沼は見ないまま戻ってきた訳ですが、今思えばそれでよかったのかもしれません。
唐桑と陸前高田の様子を見ただけでも、その悲惨な状況を肌で充分すぎるほど経験できました。
これで欲張って気仙沼も見ていたら、いよいよ頭の処理能力をオーバーしてしまいそうです。
家に戻り、おばさんに身振り手振りを交えて今回見てきたことを話して、やや呆れ顔をされてしまいましたが、二人とも無事に戻ってきたことにホッとしているようでした。
今日は水沢の従弟の家に泊めてもらうことになりました。
従弟の車について水沢まで行き、久々にじっくりいろいろなことを話しました。
処理能力をオーバーしかかった頭を整理するように、陸前高田で見てきたことを話したりして、気が付くと時間は午前3時を回っていました。
明日はおばあちゃんの家の石垣を直さなければならないので、すこし(かなり)遅いですが就寝となりました。