沖縄離島探訪【23】(2006/11/24)
おばあとお別れ:
そうこうしているうちにあっという間に船が迎えに来る時間になってしまった。気が付けばおしゃべりが楽しくて時間を忘れそうになっている。これはおばあのゆんたくマジックだろうか。居心地が良くてまだいろいろお話を聞かせてもらいたいところだが、船を待たせるわけにはいかない。という訳でおばあにそろそろお暇したい旨を伝える。おばあは少し名残惜しそうな顔をしていた。
ではお邪魔しました。と言って再び靴に足を通しているとおばあも外に出てきてくれた。
「そこまでいっしょに行こう。」
「大丈夫ですよ、申し訳ないので。ここで大丈夫ですよ。」
と遠慮したのだが、おばあは聞こえないフリをして外の方へ歩き出した。やっぱり適当に聞こえないフリをしているっぽい。
おばあがずんずん進んでいくので、自分らもそれについて歩いていたら、
「こういう所では男が先に立って歩くもんだよ!さあ!」
と笑いながら手招きされた。今度は自分が先頭に立って歩く。すると茂みに生えていたアダンかなんかの葉を1枚ちぎって、それをさっと割いて結んだものを手渡してくれた。
「これは、鞄とかの中身を盗まれないようにするためのお守り」
すっかり枯れて色あせてしまったがこれがおばあから貰ったお守りだ。帰宅後見つからなくなってしまったので紛失したものとばかり思っていたが、それから3年を過ぎた2009年に富士山に登りに行くときにリュックのポケットから出てきた。
なんか、そのまま残っていてちょっと嬉しかった。
船着き場へと歩いていく一歩一歩が、この貴重な出会いを締めくくるイベントのように思えてしんみりとした気分になって来る。そんな思いで歩いて再び船着き場まで戻って来た。
お迎えのクルーザーは既に到着していて我々が戻ってくるのを待っていた。気が付いたら1時間を少し過ぎていた。船長にすみませんとお詫びしながら乗り込んだらすぐに出港。
出港の間際にじゃあまたね!と声をかけて手を振った。おばあも子供が出来たらまた来なさい、といって手を大きく振って見送ってくれた。
徐々に離れて行くおばあを目で追うと、時折目の辺りを拭うような仕草をしているように見えた。
やがて船は島陰に回り込んでおばあの姿も見えなくなった。自分1人だったら見ず知らずのおばあに声をかけることなど間違いなくやらなかったはずだ。そうだったなら今回のようなハートウォーミングなイベントには絶対に巡り合えない。まさしくカミさんのファインプレーの賜物である。
普段は時折厚かましいなと感じる場面もあるカミさんだが、そうであるからこそこういうラッキーに繋がる訳だ。多少は見習わないとな。
ちなみに帰宅後にネットで調べてみたら、おばあとのゆんたくが旅のいい思い出になった的な記事をちらほら見かけた。実はなんだかんだ言って、おばあたちも我々のような訪問者を楽しみにしているのかもしれない。
最後に余談だが、オーハ島は近年ある事件で一躍脚光を浴びた島でもある。その事件とは2007年に発生したリンゼイ・アン・ホーカーさん殺人事件だ。犯人である市橋達也受刑者が2009年11月に逮捕されるまで2年7カ月もの長期に渡る逃亡を続けた異様な事件であったが、後の供述で彼が数か月間に渡ってこの島に潜伏していたことが明らかになった。
島では自給自足生活を送っていたといい、こんな島で自給自足を続けていたことも驚くべきことだが、それよりも自分が気になったのは、Wikipediaに記載された事件経過で、当時居住していたのは70歳代の男性が1人であった。という記載である。
前述のとおり島の住民は4世帯6人とされているが、普段は4人が住んでいるとおばあが話していた。そのおばあはご主人と2人で暮らしており、別の民家で居眠りをしていたおばあも見かけているので訪問時点で少なくとも3人いたことは確実だが、市橋受刑者が島へ渡った時には男性1人しかいなかったというのだ。具体的な潜伏の時期ははっきりと分からないが、恐らく我々の訪問から2年も経っていないはずだ。
そう考えると島でゆんたくしたおばあも別の家で自由形で昼寝をしていたおばあも、市橋受刑者が島へ渡ったころには既に島を離れていたことになる。我々の訪問時は全く元気そうに見えたが急に体調を崩されたのだろうか。あるいは島での生活の不便さから久米島へ移住することを選択されたのか。
いつかまた会いたいな、なんて思いつつ島を離れたが、もうそれも叶わないのかと思うとなんか寂しい。
オーハ島でのおばあとのゆんたくは全く想定外だった。島を離れた後も暫くのあいださっきの出来事は夢だったのではないかという浮ついたような気分が続いた。だがこれから向かうはての浜のことも忘れてはいけない。主従逆転したような感じがしなくもないが、オーハ島は本来おまけの位置づけである。メインディッシュはこれから。