南三陸語り部ツアー【2】(2016/08/06~08/07)

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朝食を済ませると8:45から語り部バスだ。
周りにも声をかけたが、みんなあまり興味がなさそうだったので、我々一家だけが参加した。

バスに乗っている人は全部で30人くらい。親戚が誰も興味を持たなかっただけに、今日の宿泊者の中に語り部の話を聞きたい、と考えている人がこんなにいることはちょっと意外だった。

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まず向かったのが、戸倉公民館。海岸から50mほど、高さ10mくらいの丘の上に建っているが、3.11の時はここが水に浸かったそうだ。

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そう話しながらあの日の写真を掲げて説明してくれる。

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裏手のスペースに仮設住宅が建てられている。震災から5年を過ぎたが、今もって入居者がいるそうだ。
もともとは2年で退去することになっていたのだが、復興計画が遅れていることも影響し、生活再建がままならない高齢者などが未だに退去できずにいるとのこと。

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次の写真を掲げる。
小学校の写真だ。今はすでに取り壊されて無くなってしまったが、戸倉小学校というそうだ。
体育館は2011年3月1日に落成したばかりだった。

ここの小学校では、当初、津波警報が発令された時は屋上に避難する手はずになっていた。3.11の2日前に起こった地震で津波警報が発令され手筈通りに屋上に避難した。幸いその時は津波は襲来しなかったが、その際、屋上に避難して津波に襲われた場合、周囲が浸水して二次避難に支障をきたす、という意見が上がったそうだ。

職員間で協議・検討の末、その意見が聞き入れられ、高台まで避難する方針に変更されることとなった。
翌日、その新たな避難計画に従って避難訓練を行い、問題なく避難できることを確認する。

そして3.11発生。
前日の避難訓練が功を奏し、児童は至ってスムーズに避難。その結果ほとんどの児童の命を救うことができたということだ。

上述の完成したばかりの体育館は流され、校舎は再利用できなくなってしまった。
もし、当初の計画通り屋上に避難していたら犠牲者はもっと多くなった可能性が高く、図らずも2日前に出た意見のとおりの結末となった。

その意見を出した人というのが、1960年に発生したチリ地震津波を経験していた教員だったそうだ。
語り部(ホテルのスタッフ)は、

  • チリ地震津波を経験した人がいたことで、津波の時にどういうことが起こるのか、その時の経験を踏まえて現状どのようなリスクがあり、どのように対処するのがよいか、など、具体的に検討することが出来たので的確な避難計画を策定することができ、結果として多くの人命を救うことにつながった。
  • そういった経験のない人が作った避難計画はあくまでその人の想像の域を出ない物しか作れない。やはり、経験に勝るものはない。
  • 戸倉小学校は取り壊されてしまった。このように震災の遺構がなくなってしまうと、そこで何が起こっていたのかは、当時を経験した人の記憶の中にしか残らなくなる。そしてやがて記憶が風化してしまうのではないかと危惧している。

といったことを訴えていた。
同じ宮城県では、大川小学校という小学校で避難誘導の判断ミスから多数の児童が犠牲になっており、しばし対比されるそうだ。

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それからバスが移動し、今度は高野会館という建物の前に来た。
ここも津波でやられて、建物は廃墟となっている。

高野会館は地元のイベントスペースとして親しまれてきた場所だったそうだ。
3月11日は、ここに地域の高齢者が集まって毎年恒例の高齢者芸能発表会がおこなわれていた。
発表会が終わって帰り支度をしているところに3.11が襲う。

携帯もつながらなくなる中、津波警報が発令される。参加者は口々に帰宅したいと要求し始め、スタッフも自分の身内が心配だったが、結局避難場所までの避難は危険と判断し、全員会場に留まらせる決断をする。

結果、津波警報が解除される3日後までここに留まらざるを得なくなったが、避難所として指定されていた場所すら津波に飲まれる中、この建物にいた327名の人は無事生還することができた。

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一方、高野会館のすぐ近くには、かつて町で一番大きな建物があった。志津川病院である。
ここでは地震発生後にエレベーターが停まってしまい、入院患者の避難が間に合わず75名の犠牲者を出してしまった。

病院の建物はすでに取り壊され現存しない一方、高野会館は上記写真のとおり今もそのままで残されている。一帯を再開発するため撤去を求められているが、ここはホテル観洋の所有物で、未来に教訓を伝えていくために必要な建物であるとの判断から、取り壊しの許可を出していないそうだ。

仮にどちらも建物が残っていれば、なぜ上記のように結果に差が生まれてしまったのかを、後世の人たちがよりリアルに感じることもできる筈なのに、取り壊されてしまえばやがて人々の記憶が風化してしまう。

その場で経験していない人にとって、リアルがないものを想像するのは難しいものだ。
結果として、戸倉小学校と大川小学校、高野会館と志津川病院のように、ちょっとした判断や行動の違いがその結果に大きな差を生んでしまうのではないか、次に同じことが起こった時に、同じ過ちを繰り返してしまうことになりはしないか。

語り部の人は直接口にはしなかったが、復興を旗印にこれらを容易に消し去ってしまおうとする風潮に逆らうことができない。後世に伝えるための遺構はできるだけ残してほしいという思いが伝わらないもどかしさを、その口調ににじませていた。

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バスは再び移動して、最後は志津川の防災庁舎の遺構へ。
少し離れた駐車場でバスを降り、徒歩で建物の方へと向かう。建物からは少し離れたところが見学場所となっている。

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写真のとおり、鉄骨の骨組みしか残っていない。
ここは震災後の検証番組やドキュメンタリーなどでしばしば紹介されるので、知っている人も多いと思う。

当日はここで会議が開かれていて、そのさなかに地震が発生。庁舎内にいた人たちは屋上へと避難するが、津波は想像を絶する凄まじさで彼らに襲い掛かり、屋上に見える鉄塔を残しほぼ水没してしまったという。

当初50人ほどがここに避難していたが、逆巻く激流に抗えなかった人が波に飲まれて次々と流されていく。水が引いた後、そこに避難していた人のうち、43名がいなくなっていたそうだ。

その時、もし自分がそこにいたらどうなっていただろうか。生き残る側なのか、流される側なのか。
どの位置にいるのか、どれだけ臨機応変に判断ができるか、そうしたものが生死を分けるちょっとした判断の差になると思う。

その判断を迫られたとき、そこに一緒にいる人が、チビだったら、カミさんだったら、身内だったら、友達だったら、同僚だったら、ちょっとした知り合いだったら、赤の他人だったら。。。
自分がどれだけ切羽詰まった状況に置かれているかで、それぞれ異なる判断をすると思う。まして知識がなければ明らかに誤った判断をしてしまうこともあるだろう。

例えば仕事でも趣味でもよいが、恐らく少しでも良い成果を求めて、自発的に知識を吸収し、経験を蓄積していくだろう。

災害はどのような形で、どのくらいの規模で自分に襲い掛かるかは、その時になってみないとわからない。
その時にどれだけ自分がサバイブさせられる方向に持っていけるかどうか。やはり、経験と知識を蓄積して引き出しの数を増やしておく必要がある筈だ。

だが、そのためには趣味や仕事の話を引き合いに出すまでもなく、自分事として考えることが必要だ。

語り部の人が語り継ぎたいのはまさにそこだと思っている。
経験者として出来るだけそこで起こったことを共有しておきたい、遺構を見てどういうことが起こるのかを知ってほしい、生き残るための知識として蓄積してほしい。。。そのようなことを伝えたいのだろうと思った。

内容は濃く、笑顔は一切ないツアーとなったが、とても有意義なものであった。

バスは再びホテルに戻り、荷物をまとめてチェックアウト。
この後、一族がそれぞれのマイカーで隊列を組んで一関へ向かい、親戚へのあいさつ、お墓参り等を済ませた。

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それから遅い昼食というか、早い夕食というか、15時くらいに食事となった。

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店は一関での食事の定番となりつつある、やまなか屋。
以前もどこかで書いた気がするが、ここは子供に対して非常に寛容な態度をとっている。

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それゆえ、子供連れのファミリーも安心して食事ができるので、店内はにぎわっている。
もちろん、焼き肉も、冷麺もとてもうまいので、おススメである。

食事後にもう一軒親戚の家に顔を出す。
その時、それまでつかまり立ちしかできなかったチビが、親戚の家でふと二本の足で立ち上がった。
20秒ほどフラフラとしてやがてへたり込んでしまったが、記念すべき瞬間を見れたのがうれしかった。

一関訪問時の定宿となっているおばさんの家でもう一泊させてもらい、翌日、東京に向けて高速を飛ばして帰ってきた。


ほぼ、震災語り部ツアーの内容しか書いていないが、自分にとってこのツアーはそれほどにインパクトのあるものだった。

ニュースや特番、ネット情報は文脈やテーマがぼやけないように文章を編集、再構成していることが多い。なので、語りの言葉の端々に散らばる本筋から外れる小さなキーワードは編集の過程で端折られてしまうことが多い。

語り部が話す言葉の端々に、ブロードキャストでは伝わってこない温度感や、もどかしさ、諦め、怒りなど様々な思いを感じ取ることができた。

自分はツアーに参加して語り部の話を聞き、そうした思いをリアルに感じ取ることができたが、これを文章に起こしてブロードキャストするにあたり、読者にその臨場感を伝えきる自信はない。ただ、せめて自ら語り部の話を聞いてみようと思われるきっかけになれば幸いである。

押しなべて思うことだが、人間、自分事にならないと問題と真剣に向き合わないということだ。それは多くの被災経験者のコメントを聞いて感じることである。被災者がこれまでに語った言葉はどれだけ身につまされる物だっただろうか。
自分自身もまた、その一人であると思うが、語り部の人が良く語る「一人でも多くの人に」という言葉の裏の意味も考えなくてはならないんだろうな、と思った。

Posted by gen_charly