韓国・2【1】(1990/12/23)
再びソウルへ:
1990/12/23(多分)
今回は飛行機で窓際の席だったので上空からの景色を撮影してみた。冬本番な時期だけに空気が澄んでいて、機内の窓から絶景が撮影できた。
房総半島と三浦半島。房総の山々は300~400mほどの標高があるが、この高度から見たらほぼ平板にしか見えない。
伊豆半島と山中湖、富士山。富士山は流石に立体的に見える。この角度から見てもきれいな山である。
Bさん:
で、仁川(インチョン)空港に着陸。
空港に到着後Bさんというおばさんと合流した。この人が父が仕事をしている間に自分のガイドを引き受けてくれるそうだ。
Bさんもまた日本語が堪能な女性だった。普通に会話ができるのでこの人と一緒ならどこへ行っても不安な思いをせずに済みそうだ。
どこに行きたいか、と聞かれたのでセマウル号と寝台列車に乗りたい、と伝えた。どこで入手した情報か忘れてしまったが、ソウルと釜山を結ぶ夜行の寝台列車があるということを知っていたので、それに乗ってみたいと思ったのだ。
それを聞いたBさんが、今からそれは時間的に無理なので今日は別の場所に行こう、と言って早速連れ出されることになった。
Bさんの後に付いて地下鉄に乗った。写真はその時に撮影したソウルの地下鉄の写真。
地下鉄の車内で立って乗っていたのだが、揺れでうっかり後ろに立っていた女性の足を踏んでしまった。慌ててその人の方を見たら自分を見てなんか険しい顔でぶつぶつ文句を言っている。とっさにすみません、と言おうと思ったのだが、韓国語でなんて言うのか分からない。横に立っていたBさんにそのことを話して、代わりにごめんなさいを伝えてもらった。
その後でなんて言ったのですか?と質問したら色々教えてくれたのだが、もう忘れてしまった。せめてごめんなさいをなんていうのかくらいは覚えておけばよかった。
それから、どこかの駅で降りてそこからバスに乗った。バスには2時間くらいたっぷり揺られた。行けども行けども着かない。
もう夕方になろうかという時間になって、ようやくバスを降りた。着いたのは韓国民族村という場所だった。
韓国民族村:
当時持っていたカメラは父に買って貰ったおもちゃのようなポケットカメラで出来が悪く写りは最悪だったが、自分専用のカメラだったのであるだけマシと思いながらあちこち持ち歩いていた。
写りは悪いが、感光したり、フィルム送りに失敗して画像が重なったりするなんてトラブルはなかったので、それなりに信頼は置いていた。
とはいえ、まぁそんなカメラで写した写真なので、現地の空気感などはほぼ再現できていないのが惜しい所だが、雰囲気だけでも感じ取っていただければと思う。
で、民族村だが言ってみたら韓国版日光江戸村みたいなものか。韓国の昔の文化や人々の暮らしぶりを展示する施設で、広い敷地のあちこちに点在するように建物などがある公園だった。色々体験できそうな場所もあったが日没を目前にして園内を見て回ったので、割と足早な見学になってしまった。
また、ここでも例によって文字がハングルで書かれているので、そこに展示されているものが朝鮮におけるどのくらいの年代の物なのかというのがさっぱり分からない。そもそも日本国内の歴史にすら疎いような自分が他国の歴史に興味を持つわけがない。
なので自分も、それがどういうものなのかBさんに質問するでもなく、Bさんもあれこれ説明したりしないものだから、割とぼんやりとした見学だった。
ざっと一周回って、それから再びバスで2時間揺られてソウルに帰還。Bさんとは車内で色々話したような気がするが、どんな話をしたかはもう覚えていない。
本場のプルコギと変な日本語とよくしゃべるドライバー:
ソウルに到着して仕事上がりの父と合流。既に20時とか21時といった時間だったような気がするが、それから夕食。韓国と言えばプルコギだ、と言うことで梨泰院(イテウォン)の焼肉屋に連れて行ってもらった。日本人向けの店らしくメニューなどは日本語で書かれていた。
店員が大きめの肉の切り身を持ってきて、ハサミでじょきじょき切りながら鉄板の上に落としていくのが日本では見たことの無い光景で新鮮だった。
肉はもちろん旨かった。まぁ、カルビだからマズくなりようがないとも言えるのだが。
帰りがけに板ガムとライターを貰ったのだが、板ガムはなんか味が薄かった。ライターには日本語で「梨泰院カハビ」と書かれていた。惜しい。もちろんカハビとはカルビの事である。
当時の韓国ではそういう怪しい日本語があちこちにあふれていた。何かで貰った地図には「ハミルトソ木テル」と書かれていて大笑いしてしまった。誰かチェックする日本人はいなかったのだろうか。
それから父とホテルまでタクシーで帰った。
タクシーを運転している年老いたドライバーが、自分らが日本語で会話しているのを聞いて日本語で話しかけてきた。
どこから来たのか、から始まって、自分は戦争の時日本軍の中で戦った、とか、当時の日本はとてもひどいことをした、とか。ホテルに着くまでの間延々と語られた。
当時の自分は歴史の授業を疎かにしていたので、太平洋戦争の時期の日本と韓国(朝鮮)の関係性は良く知らなかった。なので、なんでこのおじいさんはそんな話をしたいのかな、と思いながら聞いていた。隣で父は適当な相槌を打っていた。
ホテルに戻ったあと、父から韓国にはまだああいうことを言う人がいるけど気にするな、と言われた。
気にするも何も、話の意図が全く汲めなかったのでこれと言った感想は持たなかったのだが、終戦直後に生まれた父にとってはその辺の話というのはまだセンシティブな話題だったのかもしれない。