九州初日の出 - 16(2013/01/04)

— かつての生活に想いを馳せる —

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最後の広場では、かつて島で郵便局員をやっていたというボランティアのご老人の説明を聞くことが出来ました。

島はドルフィン桟橋のある側が工場地帯となっていて、反対側になるこちらのエリアが居住地区となっています。
原付個人としては前に触れたとおり人の暮らしの営みがあった場所に興味を持っているので、第三見学広場から見える景色にはひときわテンションがあがりました。

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まず広場の正面に見えるのが30号棟アパート。
これは大正5年に建築された日本初の鉄筋高層アパートで、築年数はなんと97年!
現存していること自体が驚異的です。

まず4階建てで建設され、その後すぐに3階分増築して今の形になったのですが、当初は鉄筋コンクリートといっても心材に使っていたのは鋼材ではなく、なんと巻き上げ機で使うワイヤーロープを用いていたとのこと。
更に海砂を使ったコンクリートを使っていたためか、特に下層階の痛みが激しく、後に5階以上を坑内で使う鉄パイプで支えて下層の鉄筋とコンクリートを全て取り替えるという荒業をやっています。
末期では至る所補強だらけの状態で使っていたようです。

ところで、建物の横梁にご注目。
レベルが一定に揃っていないことに気が付くかと思います。
一段低くなっているところに各階の廊下あり、高くなっているところが居室となっているのですが、この段差は居室の上がり框 (かまち)までの高さを大きめに取ったために生じたものです。
今でも木造家屋では上がり框の高さが数十センチほどあるのが一般的ですが、それは履物や地面から出るホコリが室内に入り込むのを防ぐためや、地面からの湿気を防ぐためです。

その理屈で言えばコンクリートの建物でそれらについてはさほど考慮しなくても良く、実際今日では数センチ程度しか取られていないのが通常なので、無理を承知でこのような設計にしたのか、はたまた当時は横梁の重要性を認識していなかったのか。。。

そう思ったのは、この建物が真ん中の吹き抜けを中心に各部屋が4つの面に巴状に配された設計になっているため、廊下部分の低い横梁が反対側の面の外壁側鉄筋と繋がっていないと言うどう考えても無理のある構造になっているからです。

大きな地震などが起こらなかったために奇跡的に今まで生き残っていますが、場所が場所なら崩壊して大惨事になっていたのかもしれません。

ちなみに、間取りは6畳一間とかまどのみで、流しとトイレは共同となっています。
時代が時代だけに、木造長屋をそのまま鉄筋コンクリートで建てたような感じです。

実際、この建物が出来る前には、木造で4階建て以上の建物を建ててみたり、土台のみをコンクリート造とする中層建造物を建築したりといった試行錯誤的な時期があり、30号棟での鉄筋コンクリートの採用も先端技術の先取りと言うよりは、長屋を更に集積させるために必要に迫られて採用された手段で有ったことが窺えます。

他の建物がおおむね二間で作られる中、この建物は一間しかなかったのですが、部屋を隔てる仕切りは土壁で出来ていたので、晩年人口が減って空き部屋が増えてくるとその土壁を取り払って二間続きにして使っていたそうです。

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30号棟の部屋の内部をズームで狙ってみたものです。
レンガ造り(貼り?)の構造物はかまどか何かの跡でしょうか。

奥には内階段が見えています。

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同じく別のフロアのものをもう一枚。
木机のようなものが残っています。

一昨日、佐多岬で見つけた灯台守の宿舎の廃墟では、戦前の建物ながら建具や床板などがちょっと手入れするだけで使えそうな感じで残っていたのに、同じ海沿いなのにずいぶん様子が異なります。

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30号棟のすぐ左側に建つ「く」の字型の建物が31号棟で昭和32年築。
昭和32年築の建物なんて普通に考えればクラシカル建築物の範疇に入ってもおかしくないレベルですが、ここではまだまだ若造の範疇です。

外海側となる島の西側に押し寄せる波は強烈なもので、島全体を囲っている10mもの高さを誇る防波堤を持ってしてもそれは防ぎきれず、猛烈な台風が襲来すると高潮が島の岩山すら飛び越えて反対側まで達したそうです。

そのため、島の中は作業場を守るため住居を犠牲にする形で、内海側に作業場、外海側に居住区域と言う配置になっています。

防波堤を超えて入り込んだ海水は廃材や護岸の石などを伴い島内を激流となって流れ、建物を壊してしまうので、海水をいかに島の内側へ入れないようにするか、また、入ってしまった海水を効率よく排水するかが設計上のキーワードになっているようです。

他の建物では、通路上を水が流れないように、半地下部分を設けてそこから排水できるようになっているものもあり、また、桟橋から30号棟までを地下のトンネルとしたのは、これらの排水溝を兼ねた設計でもあるとのこと。

上の写真でこちら側に面している窓は廊下の窓で、各部屋の窓は暗い反対側に設けられています。
わざわざそのような設計にしたのは、この建物自体が防潮堤の一部としての機能を持たせた造りになっているからで、住環境が二の次だったことをよくあらわしていると思います。

この建物の中を背後の岩山をくりぬいて作られた前述のズリ出し用のトンネルが通り抜けていて、炭鉱で排出されたズリをそのまま海に投棄していたとのこと。

昭和32年に海底水道が開通するまで、水源のない島での水の確保は非常に困難を極めたそうです。
古くは海水を蒸留して使い、やがて給水船による運搬へと変わってゆくのですが、いずれの時代も常に水不足との戦いで、当時の一日の一人当たりの割当てはわずか8リットルしかなかったと言われています。

そのため、真水の殆どは飲み水や料理等に用いられ、風呂水や洗濯、食材の洗浄などは海水を用いていたとのこと。
トイレもその例に漏れずタンクに溜めておいた海水で流していたのですが、海水ではバクテリアが働かないため水を浄化することが出来ず、直接海に放流していたため、海の汚染が酷く、赤痢などの伝染病に悩まされたそうです。

ズリの投棄もそうですし、生活廃水の放流も今の感覚では考えられないことですが、当時のそういった認識がなかったので仕方のない面も有ります。
そんな酷く汚れた海でも泳ぐ子供がいたと言うことですから逞しいものです。

もっとも潮の流れが速い場所なので、人が離れてから40年を経た今ではすっかり水質も改善し、辺りはなかなか良い漁場になっています。

この建物には共同浴場、郵便局、売店、床屋などがありました。
生活に必要なものは一通り何でもあると言われるなか、二つだけ島になかったものが火葬場とお墓でした。
これは中ノ島に火葬場と無縁仏向けのお墓が設けられ、人が亡くなると船で運んでそこで火葬していたと言うことです。

ちなみに島には禅宗の寺が一つだけあったのですが、さまざまな宗派の人を分け隔てなく対応したので、「禅宗」 をもじって「全宗」の寺と呼ばれていたそうです。

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31号棟(左)と30号棟(右)に隠れるようにして建っているのが25号棟です。
ここは職員住宅ですが、1階と2階には行商などの外部来訪者向けの宿泊所「清風荘」が設けられていました。

残念ながらこの第三見学広場から見える住宅はこの3棟のみ。
この奥に広がる沢山の建物もそれぞれ特徴あるものばかりなのですが、それは船の上からしか見ることができません。

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その他ボランティアの方は以下のようなことを解説してくれました。

・島にはこれだけ高層アパートが林立したが、エレベーターの付いた建物は一つもなかった。
・ただし、各フロアから他の棟や背後の岩山へ抜ける渡り廊下が設けられていたので、上り下りをしなくても大体の用事を済ませることが出来た。
・島の郵便局員の当時の給料は11000円だったが、鉱夫は40000円もの高給を貰っていた。
・昭和33年に100%電化を達成。
・高給取りだったため先を競うように各家庭でテレビが導入され、東京オリンピックは多くが自宅の茶の間で観戦した。
・ちなみに他の地域で自宅で観戦した人は全体の2割しかいなかったと言われている。
・家賃、水道は無料、電気は一定の使用量まで一律わずか8円だった。

高給取りであるにも関わらず、食費以外の生活費がかからないのであれば、お金はどんどん溜まっていく一方だったと思われます。

上記のような待遇であったことから、当時の新聞ではこの島がユートピアであると絶賛したが、部屋は狭いし下水も垂れ流しだったので環境は決してよくはなかった、とおっしゃっていましたが、確かに今の感覚で言えば部屋は暗いし風通しは悪いし、風呂トイレは共同だし、エレベーターないしで、もし端島炭鉱が今でも稼動していたとしたら、相当問題になっていることでしょう。

もしかしたら住環境改善のためいくつかの建物を取り壊して更に近代的な高層マンションが立ち並ぶような風景が広がっていたのかもしれません。

ちなみに、件の釣ん人がさっきから何度も根がかりを繰り返しているようで、堤防の上を行ったりきたりしている姿が視界の片隅に入り込んで、なんとなく気になります。。。w

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という訳で、島内で立ち入れる場所はここまで。
ボランティアの方の解説はこれで終わり、あとは船へ戻るしかありません。

それでも、色々な話も聞けて、かなり満足する事が出来ました。

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島の上陸滞在時間は一時間弱。
いざ島を後にする時が訪れると一時間と言う時間はあっという間。

後ろ髪惹かれる思いでドルフィン桟橋まで戻り、再び船に乗り込むとデッキの右側は既に満員御礼。
着席は出来なかったものの、デッキの傍らにどうにか二人分立てる場所は確保しました。

もっとも、今は一番寒い時期なので、もっと陽気がよければデッキは鈴なりの人だかりになっていた事でしょう。

Posted by gen_charly