今歩いてきた都道211号線、またの名を「新島本道」という。
なぜか若郷側が道の始点になっている。
ちなみに、他の大島支庁の島々に作られた都道も島の名前+本道という名称がついている。
それはさておき、食べ歩きをするつもりが思わず島寿司を手に入れてしまい、流石に食べ歩きと言うわけにもいくまい、ということで、海岸の堤防にでも腰かけて食べようと思いつつ、小学校まで戻ってきたら、校庭に体のよいテーブルを見つけたので、ここでいただくことにした。
薬味にカラシではなくワサビが付いていた。この店だけなのか新島では一般的なのかは不明だが意外な感じだ。
漬け汁は今まで食べたほかの島のものよりも甘く、それがワサビと思いのほか相性が良く、また新鮮な魚の脂の甘みとよく絡んで、二人して校庭でうまーい!と大声を出してしまった。
車に戻る途中、神社の前で懐かしいものを見つけた。
昔は何処にでもあった電柱に付けられた街区表示板。
若郷集落のトップナンバーが残っていると言うところが泣かせる。
さて、このあと本村の集落に向けてあちこち立ち寄りながら南下するわけだが、手元にある観光マップに書かれた地図がなんともルーズな作りで、レンタカーにもナビが付いていないので、目的地を探すのに往生したスポットが何箇所かあった。特に集落内の道は細く、また入り組んでいるところもあるため、いよいよ自分が何処を走っているのか分からなくなって、行ったり来たりする羽目になった。
今思えばスマホをナビにして走ればよかったなぁ、とも思うのだが後の祭り。。。
集落の出入口に当たるところに有るのが若郷トンネル。
トンネルの脇に写真つきの解説板が置かれていたので見に行ってみると、
「平成12年7月15日、新島近海地震によって若郷地区は甚大な被害を受け、木戸の坂と呼ばれるつづら折の都道は、大規模な斜面崩壊が発生し通行できない状態が続きました。
そこで、今後も同じような大地震が発生しても、安全かつ確実に若郷地区と本村地区を連絡できるように、この「若郷トンネル」を建設しました。(以下略)」
2000年というとコンピューターの日付が誤動作し、世の中が大混乱に陥るなどと言う2000年問題が騒がれた年だった。また前年まではノストラダムスの大予言で人類は1999年で滅亡するとまことしやかに言われていた時期でもあった。
当時もシステム関係の仕事をしていたが、2000年問題の時は勤め先の上司のみならず全世界のシステム屋が相当神経をとがらせていたことを思い出す。それなりに出来ることはやりつくしたとはいえ、予期しないことが起こるかもしれない、などと不安を煽られたりして、戦々恐々としながらその日を迎えたわけだが、そのオチは幽霊の正体見たり枯れ尾花状態だった。
そしてもちろん予言によって人類が滅びることもなく無事に2000年を迎え、世間的にはミレニアムといってちょっとしたお祭りムードが漂っていた。
そんな年の3月には有珠山が、6月には今度は三宅島の雄山がそれぞれ噴火し、浮かれたムードに水を差すような出来事となった。三宅島の噴火においては火山ガスが大量に放出されるという特徴があり、都心部にも流れ込んできた。
当時仕事帰りに京王線の地元の駅を降りたら、駅の周辺が硫黄臭くてなんだろうと感じたことを覚えている。
脱線したが、その三宅島の噴火の際、うごめく溶岩流がその出口を求めて地中で暴れ狂い、新島、神津島の周辺で群発地震を引き起こした。
各島では最大で震度6弱と言う猛烈な揺れに何度も見舞われたのだが、人口が少なく、また報道などが気軽に取材に来れない場所だったせいか、災害の割にさほど大きく扱われなかったように記憶している。
自分は自宅で地震の揺れを感じ、どこか離れたところで大きな地震が起こったことを直感した。テレビを点けたらNHKだったと思うが、この若郷地区へ通じる道路が大きく崩壊して通行できなくなっているという中継がやっていた記憶がある。
その場所に14年を経た今立っている訳だ。とはいえちゃんと下調べをせずに来てしまったので、当時の痕跡がどれなのかよく分からないが、また来る機会があったらそれらの遺構などもチェックしてみたいと思う。
トンネルを抜け暫く進むと「淡井浦海岸」と書かれた道が分岐する。
暫く道なりに降りていくと、やがて駐車場となり道が途切れた。アクアブルーに輝く海にサーファーがぽつぽつと浮かんでいるのが見える。
この砂浜は羽伏浦海岸のさらに北に位置する海岸で、周囲に人家もなく静かな海岸だ。明るい色の砂浜で海の色と相まってどこか南の島にでも来た様な感じだが、サーファーが浮かんでいるだけあって波は高く、家族連れが気軽に海水浴を楽しめるような場所ではないようだ。
暫く待っていたら、上手いこと波に乗ったサーファーがいたので激写。