野田線を訪ねて (1988/03頃)
1988/03/xx(多分)
春休みだったのだろうか。写真に写る人の着ている服がまだ冬の装いなので、多分その頃である。
当時、野田線には3000系という、東武の最古参電車が生き残っていた。
ツリカケである点では5000系と大きな違いはなかったが、より旧式の車両を更新した系列のため、ちょっと寸詰まりの18m車体となっていた。
デビュー当初は東上線や伊勢崎線系統などで運用されていたが、5000系や8000系の増備に伴い、徐々に追いやられ、当時は野田線および、群馬・栃木県内のローカル線で使用されていた。栃木・群馬は気軽に行くには流石に遠かったのだが、野田線なら大宮まで行けば乗ることが出来る。
もう、ぼちぼち3000系列も引退時期が近づいてきている、ということで見に行こうと思って出かけた時の話である。
この時期、鉄道写真に興味を持ってあちこちで撮影に出かけていたのだが、都度親のカメラを借りていたので、親が使いたい時にバッティングするということで、自分用のカメラを買ってもらった。
とはいえ、買って貰ったのは110フィルムという特殊なフィルムを使う、ポケットカメラと呼ばれるものだった。このカメラは、フィルム代も現像代も一般的な35mmフィルムより安かったので、子供の少ない小遣いでやりくりするにはありがたかったが、いかんせん画質が悪いのが難点だった。
もちろん、自動巻きもついてないし、日付が入るなんて便利機能もない。一応、フラッシュと、およそ2倍程度に拡大してくれるレンズは装着されていたので、最低限の写真を撮ることはできたが、友達と出かけた時に出来上がった写真を見比べてみじめな気分になることもあった。
それでも、自分専用のカメラがあるというだけでうれしかったものである。
大宮から野田線に乗り春日部へ。野田線に3000系があると言っても、絶対数が少ないので、たまに来てもやってくるのは大抵5000系だった。
今回は3000系を撮影することが目的なので、電車は何本か見送りつつ、遭遇できるチャンスを待つつもりである。
とりあえず、春日部で下車。したら留置線に停まっていた。見れてよかった。
3000系は18m車両と述べたが、そのために扉の数や窓の配置が異なっている。サイドビューは日比谷線直通用の2000形に準じている。
その後もホームに残って、伊勢崎線にやってくる列車などを撮影していた。
すると暫くのちに入線してきた列車が旧塗装の3000系だった。慌てて撮影したので切り取りが雑だが。。。
昭和50年代の東武の車両はもっぱらこの色だった。東武はこの色をセイジクリームと呼んでいたが、沿線に住む人からカステラ電車とか、なんなら単純に、肌色の電車とか言われていた。まぁ、肌色だよな。
小学校で理科を教えていたO先生は、鉄道好きな先生として校内の鉄道キッズたちから慕われていたが、まぁ口の悪い先生で、「東武はケチだから、ペンキ代が一番安い奴使ってるんだよ」と嘯いていた。
ちなみに西武の車両が黄色いのは、昔肥料を運んでいたので、汚物が飛び散っても目立たないようにするため、だそうだ。
どちらも全くでたらめな話というわけでもない気がするが、実際のところはどうだったのだろう。
まぁ、少なくとも東武においては近隣の私鉄のあか抜けた塗装からすると、ひときわ地味な感じが拭えなかったのは事実である。にもかかわらず肌色電車は結構長い間走っていたので、O先生の言っていたことももっともらしく聞こえたものだ。
それはさておき、今度は春日部から柏へと向かった。やってきた電車はまたしても3000系。来る時には来るもんだね。
その列車の写真はなぜか写真に撮っていないのだが、車内で連結部分の運転台の写真を撮っていた。真鍮のマスターコントローラーが3000系の証。
柏でJRに乗り換え。丁度ボンネット型の485系がやってきたので撮影。
しかし、ホームが混雑している。映り込んでいる時計が15:50分を指している。通常であれば最も閑散とする時間帯であるが、当時の常磐線は常に混雑している路線だったようだ。
で、やってきたのは上野。既にフイルムの残量も少なく、撮影は吟味していたので、上野では写真をそれほど撮っていない。
ホームをウロウロしていたら、ミステリー号という臨時列車が止まっていた。キハ28か58だと思う。
キョンシーを彷彿とさせるイラストが描かれたヘッドマークが掲げている。
事前に情報を得て撮影に臨んだものではないので、どこに行くのか、どこから来たのか、いずれも不明だが、ミステリー号、ということであれば、多分、新金線や新松戸で武蔵野線へ入るため渡り線などを経由する、普段では乗ることができない経路を進む列車だったやつだと思う。
写真はこれで終わりである。ここからは多分大人しく帰宅したのだろう。