広島・高松遠征【2】(1991/05/03)

1991/05/03

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広島に着いたのは5時過ぎ。ついに広島まで来てしまった。とりあえず駅の窓口に行って、補充券と見つかった切符を見せて払い戻しをしてもらった。財布が膨れてホッとした。

広島駅の駅前に広島電鉄(広電)の乗り場があるが、まだ始発の時間は少し後だった。駅前をあてどなくブラブラして時間つぶし。

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やがて始発電車がやってきた。元神戸市電の1100形だったかな。
広電は路面電車の博物館の異名を持つ。自社発注の車両のみならず、他の各社の払い下げの電車が多数走っている。元の路線の方は既に廃止されていたりして、ここでしか見られない車両などもある。それ故、高知の土佐電鉄、高松の琴電と並んで、路面電車の博物館と称されている。

当時は鉄道写真のコレクションを増やしたい一心だったので、ぜひ一度来てみたかったのだ。

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次が自社オリジナルの800形

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始発が動き出したらほどなく駅が賑やかになって来た。路面電車の博物館の面目躍如、次から次に様々な車両が到着しては発車していった。
線路の先を見ると、続々と列車がやってくる。

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やがて、宮島口方面行きの3800形がやってきた。これも自社オリジナル車両だが、宮島口方面は途中から鉄道線という路線に直通する。より多くの乗客を運ぶ必要がある関係から、車両も短い車体をつなげた3連節車体になっている。

路面電車と言えば、一両でちょこちょこ走るイメージだが、この車両は芋虫のように長い。関東では見られないタイプの車両に興奮する。

で、これに乗って、宮島口に行って見ることにした。

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途中、鉄道線の車両とすれ違った。慌てて撮影したらギリ写せたが、持ってきたカメラは時々フィルム送りが調子が悪くなることがあり、よりによってその不調が、このタイミングで出てしまった。そのせいで前に撮影した写真が重なってポール・モーリアのジャケットみたいになってしまった。今では見られない貴重な電車なのに。。。

宮島方面へ行く列車は、近くをJRが並走しているために、差別化のために駅が多く設けられている。列車はそれらの駅に一つ一つ停まりながら進むので結構時間がかかる。宮島口まで1時間ほどかかった。自分のように電車に乗りたくて乗っている人でない限りJRを使った方が早くて便利。

さて、宮島口に着いた。これまでの自分なら間違いなくここで折り返して広島に戻っている筈だが、中学生になったので、少しはちゃんと観光もしようと思って、宮島に渡ってみることにした。

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フェリーは頻繁にやってくる。そして料金も安い。気軽に乗り込んで船上の人となる。

10分ほどで宮島に到着。この島の名前は正式には厳島だが、安芸の宮島の方が通りがいいのでここでは宮島で表現する。自分の島旅人生で初めて上陸した記念の島である。過去に両親に連れられてどこかの島に行ったことがあるかもしれないが記憶にないので、ここからスタートということで。

宮島には厳島神社があるということ、海上に立つ鳥居があること、くらいは知っていたがそれ以外の知識はない。

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とりあえず厳島神社に参拝し、そのあとあてどなく神社の敷地を散策した。

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五重塔があったり、

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例の鳥居があったりで、ざっと一回りしたが、15分くらいで見終わってしまった。
折角島に渡ってきたのに、ここで戻ってしまったら勿体ない。

 

ブラブラしていたらレンタサイクルを見つけた。それを見て自転車で島を1周してみることを思いついた。
自転車があれば機動力が大幅に向上する。島だから1時間もあれば1周できるだろう。地元では常に自転車移動なので1時間くらいの移動は散歩レベルだ。

ということで自転車を借りて、あてどなく南西方向に進んでいくと、ほどなく集落が終わりやがて海沿いの一本道になった。
そのままその海岸沿いの道を漕いでいくが、ずっと右手に海、左手に山の構図が変わらない。そして集落らしきものも一向に現れる気配が無く、だんだん飽きてきた。

手元に地図があるわけでもないので、どの辺まで進んだかすら分からなかったが、30分くらい漕いだあたりでなんか時間がもったいなくなって、そこで折り返してサイクリングツアーは終了となった。

1枚くらい写真撮っておけばよかったな。当時はフィルム代やプリント代がかかったので、のべつ幕なしに撮影するという考えがなかった。
なので、興味が持てなかった場所の写真など撮るはずもなく。。。

 

戻ってきたらやることもないので、そのままフェリーで本土に戻ってきた。当時は島に対する思い入れもなかったので、こんなもんである。

帰宅後にどこをどのくらい走ったのか気になって地図を見てみたら驚いた。島を一周する道なんてなかった。そのうえ、島は東西10kmくらいの幅を持つ島だった。こんな大きな島を一周しようと思っていたのか。
周囲が30kmもあるらしいので、仮に一周道路があっても半日仕事になる。その道すがらに集落が点在した日にゃ、引き際が分からなくて困惑していたような気がする。

そう考えると、この程度ですんなり諦められたのはある意味ラッキーだったのかもしれない。

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で、再び広電に乗って広島に戻る。写真は駅に停まっていた2000形。

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3700形も停まっていた。
宮島に観光に来る人はそれなりに時間をかけて島内を見て回ると思われ、この時間は閑散としていた。

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で、広島に戻る途中、原爆ドーム前で下車。原爆ドームを見に行った。
これとて、興味があって見に来たわけではない。東京と言えば浅草、京都と言えば金閣寺、広島と言えば原爆ドーム。折角来たのだから有名どころは見ておこう位の感覚だ。

ただ、原爆ドームと言えば戦争である。そのことは訪問に際して自分の気を重くした。
なぜかというと戦争が嫌いだったからだ。当時は今ほど情報にあふれた時代ではなく、反戦平和を掲げる人たちが幅を利かせている時代だったこともあり、第二次世界大戦に対して断片的かつ偏ったイメージを植え付けられていた。

厳しく暴力的な上官にこき使われて、ロクな食事もとれず飢えに苦しんで、戦闘になればあっという間に殺されてしまう兵隊。。。庶民は庶民で戦争に巻き込まれていく中で、やりたいこともろくにできないし、食事にも事欠くし、なんなら赤紙一枚で訓練もされていない人間が戦争に駆り出されてあっさり殺される。挙句、空襲で街ごと焼き尽くされる。。。
そして、原爆投下。投下によって人々は一瞬で焼き尽くされ、そこで辛くも一命をとりとめた人も原爆症に悩まされてやがて死んでいく。。。

自分が子供の頃、戦争を伝えるものは押しなべてそういう論調だった。ただひたすら戦争は恐ろしいという一面ばかりが強調され、心優しい?平和主義の自分にとってそれらは恐怖の対象にしかならなかった。

 

そもそも、自分は昔から暴力的なものが嫌いだった。戦隊ものやヒーローものも好きになれなかったし、時代劇も不良が暴れる学園物もスポ根ドラマも嫌い、なんならRPGなども好きになれなかった。
悪役がやっつけられてシュンとしていると、悪役が可哀そうだなと感情移入してしまう有様だ。そのくらい徹底していた。
学校でもやんちゃなガキ大将からは距離を置くようにしていたし、粋がっているスポーツ少年も苦手だった。

歴史の授業もあまり楽しめなかった。何しろ授業で習うことの殆どは有史以来の戦いの歴史である。戦国時代も武士や侍の時代も基本的に誰かが誰かをやっつけることの繰り返しである。そんなことをしている武将がなんという名前でとか、割とどうでもよくて頭に入ってこなかった。

 

まぁ、そういう人間だったので、なんかおどろおどろしいものを見せられてトラウマになったらどうしようとか、そんな先入観があって気が重かったのだ。だったら行かなきゃいいのに、という話ではあるのだが、広島へ行ってきたよ、と土産話をする時に原爆ドームは見なかった、と言って馬鹿にされたらいやだな、と思ったのである。

そんな前提での訪問だったので、ドームも近くに行ってさっと撮影したら他の物は一切見ずに立ち去ってしまった。
ただ、ドームしか見なかったからか、ドームそのものにおどろおどろしさは案外感じられなかった。

そんなこんながあって、広島に戻ってきた。

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駅でもう一頻り広電の撮影。写真は元京都市電の1900形。

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元大阪市電の900形。

次々とやってくる色々なところを走っていた路面電車を見ていると一日過ごせそうである。
路面電車の博物館の異名はダテじゃないな、と思った。

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と、思っていたら花電車が乱入してきた。フラワーフェスティバルというイベントの広告電車らしい。
これまたラッキーなものが見られたな。

Posted by gen_charly